エピローグ
レグロン 1
「ご実家から、お届け物です」
ウィーンのボーディングスクール(全寮制寄宿学校)、「テレジアヌム」。
その寮に寄宿している生徒の家からの使いであろうか。
黒髪の、若い男が訪れた。
男は、階段を上り、部屋を探している。
「坊ちゃま。ご所望のステッキを持ってまいりました」
膨らんだ箱を持ち、そのてっぺんに、大切そうに、ステッキを乗せている。
目指す部屋を見つけたのか。
勿体をつけ、重々しい仕草で、ドアをノックした。
返事はない。
ステッカーを握り直し、もう一度、力を込めてノックする。
部屋の中は、しんと静まりかえっている。
何度かノックして、使者は諦めたようだ。
隣室の前へ移動する。持ってきた荷物を預ける魂胆だろう。
だが、こちらも、応答がない。
日曜日の朝。
学校は休みで、大概の者は、まだ、在室している時間帯だ。
だが、どの部屋からも、物音ひとつ、しない。
使者は首を傾げた。
再び、最初の部屋に戻り、そっとノブを回した。
鍵は掛けられておらず、ドアは、内側に開いた。
その時だった。
上から、バケツが落ちてきた。
バケツは、大きな音を立てて彼にぶつかり、中身をぶちまけた。
「うわっ!」
使者の全身に、白い粉がぶちまけられた。古くなって、食用に適さなくなった、小麦粉だ。
全身、白い粉だらけになりながら、使者は、とっさに、後ろに飛び退った。
足がよろける。
その足に、白い糸が絡まった。
がらがらと、大きな音が鳴り響いた。
糸は、ブリキのやかんや、釘、金属の皿などをたくさん吊り下げたロープと連動しており、それらがぶつかり合って、凄まじい音を立てる。
「ひっ!」
使者は、完全に度を失っていた。
顔は、粉で真っ白になっている、その口からぶっと、粉を噴き出した。目はしっかりとつぶっている。目にも、入ったのだろう。
ふらふらとよろめき、ブリキを吊り下げたロープに、足を取られた。
ろくに前も見えぬまま、見事に、尻もちをついた。
そこへ、部屋の中から、少年が飛び出してきた。
少年は、使者の頭から帽子を奪い、派手な歓声を上げた。
そのまま、階段を駆け下りておく。
「なにをするっ!」
廊下に座り込んだまま、使者は、ステッキを、めくらめっぽう、振り回した。恭しく捧げ持っていたのを、転んでも手放さなかったのだ。
ステッキは、廊下の柱にぶちあたった。
「あっ!」
繊細なそれは、ものの見事に、半分に折れてしまった。
走り去っていく少年が、振り返って、笑い転げている。
この騒ぎに呼応して、今まで無人のように静まり返っていた、あちこちの部屋のドアが開いた。
中から、大勢の少年たちが現れ、一斉に鬨の声を上げた。いずれも、ローティーンの、わんぱく盛りだ。
彼らは、帽子を奪った少年に続き、大声で笑いながら、外へ飛び出していく。
「こらーーーーっ! 毎度毎度、お前らはーーーーーっ!」
使者が、飛び起きた。
かんかんに怒って、少年たちを追いかける。
階段で足を滑らせた。下の方のステップに、油がぬってあったのだ。
「
悲鳴を上げながら、尻から滑り落ちていく。
前を駆けている少年の一群が、振り返った。手を打って、大喜びしている。
「ぐそーーーーーーっ! おいこら、待てーーーーーーっ!」
尻を打った痛みもなんのその、使者は、全速力で、少年たちを追いかけていく。
……。
「君は、追走劇に参加しないのかい?」
声を掛けられ、リヒャルトは、振り返った。
同学年のフランツが、立っていた。
「いや、僕は……」
リヒャルトは口ごもった。
「ああ、言葉がまだわからないのかな? 君は、日本人とのハーフだものね」
「言葉ならわかる!」
リヒャルトは、日本で生まれた。母親は、日本人だ。
彼には、栄次郎という、日本名もある。
2歳の時に、外交官だった父の故国、オーストリア・ハンガリー帝国にやってきた。
それからは、父の教育方針で、もっぱら、ドイツ語で育てられた。
むしろ、日本語が、わからない。
「そう?」
思わず尖ってしまった声を、フランツは気にもしていないようだった。
「なら、なんで、みんなと一緒に、追いかけっこをしないんだい?」
「だって、僕は……」
オーストリアは、多民族国家とはいえ、日本人の血が混じる者は、そうそうは、見かけない。
なんとなく、気後れを感じる。
「今まで僕は、ボヘミアで暮らしていたんだ」
日本での任期が果てると、父は、家族を連れて、ボヘミアの城に引っ込んだ。
さびれた村にある、小さな城だ。近所には、友達もいなかった。栄次郎は、幼い頃、兄弟としか、遊んだ記憶がない。
2年前に父が亡くなった。
それから、母は変わった。おとなしい人形のようだったのが、父に代わり一家を切り盛りするようになった。使用人を厳しく支配し、時には、父の生家とも争った。
つい最近、彼女は、7人の子ども達を連れて、ウィーンに出てきた。上の息子達に高等教育を受けさせるためだ。
まず、リヒャルトと、ひとつ上の兄が、テレジアヌムに入学した。
リヒャルトには、華やかな
「ボヘミアかあ」
フランツの瞳に、温かい色が灯った。
「僕の城も、ボヘミアにある。もっとも、一度も行ったことはないが」
「そうなんだ……」
わずかながらでも、共通点が見つかった学友は、初めてだった。
リヒャルトは、しげしげと相手を見た。
金髪碧眼で、肌の色は、白い。背が高く、ほっそりとしなやかな体つきをしている。
立っているだけで、優雅な気品が漂ってくる。
自分と同じ人間だとは、到底、思えなかった。
そんな気持ちが伝わったのだろうか。フランツは、薄く笑った。
「僕も混血だぜ?」
「え?」
「君もそうだろ?」
リヒャルトは、ドイツと日本の混血だ。
「僕は、フランスとドイツだ」
「へえ!」
再びの共通点が、リヒャルトには、ひどく嬉しい。
「人種とか出身とか、気にすることはないさ。同じヨーロッパ人として、君と僕は、同じ仲間だ」
「ヨーロッパ人?」
「イタリア系、ドイツ系、北欧系……さまざまな人種が、狭いヨーロッパにひしめいている。でも、根っこはひとつ、同じヨーロッパ人なんだ」
「うん!」
心が、晴れていくようだった。
フランツが屈みこんだ。折れたステッキを拾い上げる。
「あいつ、また、ステッキを折って。ほんと、そういうとこは、死んでも治らないんだな」
ぶつぶつ言っている。
おもわず、リヒャルトは尋ねた。
「さっきの人は、君の家からの使いなの?」
「そうだよ。僕のしもべだ」
「しもべ?」
「使い魔のようなもんだよ」
その言い方がおかしくて、リヒャルトは笑った。
フランツが顔を上げた。眉を顰めている。
「あの男も、混血だと言っていた。フランスと、どこか東洋の……」
気づかわし気に、リヒャルトを見る。
「まさか、日本じゃないだろうな。あいつがもし、日本人の血を引いていたら、君は、気を悪くするかい?」
「しないよ!」
思わず叫んだ。
「同じヨーロッパ人だ!」
……。
「それが、僕と、フランツが、親しくなったきっかけなんだ」
リヒャルトが語ると、妻のイダは、柔らかく微笑んだ。
「彼をきっかけに、あなたは、学校生活になじめたのね?」
「なじめたどころか!」
リヒャルトは笑い出した。
「テレジアヌムには、ハンガリー人の学生が多かった。マジャール系だけじゃない、いろんな血が混じった学生がいて、でも、僕らはみんな、一緒だった。あそこで学んだことが、今の僕を作っているんだ」
そう言って、愛し気に、手元の本を撫でた。
『パン・ヨーロッパ』。著者は、リヒャルト自身である。
この本は、ヨーロッパの青年たちに向けて、「歴史と文化を共有するヨーロッパ国民」になろう、と呼び掛けている。リヒャルトは、民族主義の名の元、乱立する各国を、ヨーロッパとしてまとめようと、声を上げたのだ。
1923年、半ば自費出版で出版されたこの本は、大きな反響を呼んだ。記録的なベストセラーとなり、各国の政治家が、いち早く、反応した。
オーストリア政府はもとより、チェコスロヴァキアの大統領、フランス首相やドイツ外相までもが、この運動……パン・ヨーロッパ……を支持した。
そして、3年後。
ついに、このウィーンにおいて、「第一回パン・ヨーロッパ大会」が開催される運びとなった。
「それもこれも、君の協力があったからこそだ、イダ」
『パン・ヨーロッパ』の出版は、イダが、金銭面で、全面的に援助してくれた。
イダ・ローランは、有名な女優だ。
初めて会ったとき、リヒャルトは19歳、イダは33歳だった。
すぐに、恋に落ちた。
二人の結婚に、母のみつは、大反対だった。イダは、みつより6歳年下に過ぎない。息子より、母の方が、遥かに年齢が近い。
それに、日本人のみつには、女優という職業が許せなかった。
二人を引き合わせたのは、みつ自身だった。著名な女優だというので、みつは、息子を連れて、彼女と会いに行った。
それなのに、卑賎な職業の女だと、決めつけた。
みつの夫、そしてリヒャルトの父、ハインリヒは、オーストリア貴族の身分を持っていた。
おまけにイダには、前の結婚でできた連れ子までいた。
みつはイダを、人さらいと罵った。その狂乱する姿は、まさしく、般若のようだった。
「あなたには、好きなことをしてもらいたいから」
対して、イダは、一向に年を取らない。
もちろん、年齢相応の皺やシミはある。
だが、その精神が、肉体の上に、如実に反映されている。
若々しいままの彼女は、夫を見て、にっこりと笑った。
「本当はね。この大会に、あなたのお友達を呼びたかったの。あなたに、ヨーロッパ人としての自覚を持たせてくれた、フランツという人を」
「ああ……。それで、彼のことを、あれこれ聞いてきたんだね」
奇妙なことに、あんなに親しくしていたのに、リヒャルトは、フランツの姓が思い出せない。
姓だけではない。
テレジアヌムを卒業してどこに進学したのかも、その後、どのような仕事に就いたのかも、今、どこで暮らしているのかも。
「学校に問い合わせてみたの。でも、フランツという名前は多すぎて……。何人かと連絡を取ってみたけれども、全部、違っていたわ」
「そう」
「不思議ね。ボヘミアに城を持つくらいの貴族でしょ? 簡単にわかると思ったのに」
「そこまでしてくれたんだ」
「あなたの為に、なりたいのよ。あなたの喜ぶ顔を見たいの」
「ありがとう、イダ」
胸がいっぱいになって、リヒャルトは、妻の手を握った。
「本を出版して、パン・ヨーロッパの大会を開催して。あなたは、これだけに有名になったんですもの。もしかしたら、この大会に、『フランツ』も、来ているかもよ」
イダは、いたずらっぽく笑った。
「会議よりもむしろ、君を見てほしいな」
リヒャルトは囁いた。
「君の……」
各国から来る代表団の為に、オーストリア政府は、シェーンブルン宮殿で、盛大な歓迎会を催す予定だ。
もてなしの一環として、ブルク劇場で、エドモンド・ロスタンの戯曲が上演されることになっていた。
主演はもちろん、イダ・ローランだ。
「……
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