耐え難い苦痛と絶望
マリー・ルイーゼは、いつまでも
トリエステまで来たマリー・ルイーゼが、なかなか息子の元へ来ないので、人々は、苛立っていた。
ついに、プリンスは、秘跡の儀を受けてしまった。
死の宣告を捺されてしまった。
それなのに、彼の母親は、一向に姿を現さない……。
彼女を、シェーンブルンへ向けて旅立たせたのは、意外にも、メッテルニヒだった。
彼は、死にかけている息子を放置し続けている母親への、オーストリア国民の怒りを察知していた。
確かに、メッテルニヒは、マリー・ルイーゼがウィーンへ来ないよう、いろいろと細工をしてきた。
当座は、ナポレオン2世重病説を否定した。ルイ・フィリップを牽制する為に。そしてまた、アンリ5世と拮抗させ、フランスの王制を守るために。
オーストリア国内においては、民の怒りを、そらすために。
転地療養を許さない
「誤診」を続けた
民の怒りを、幼い息子を捨て、パルマで放蕩三昧だった
息子が死にかけていても、一向にやってこない、薄情な母親へ……。
だが、ここまできたら、やりすぎだ。
母親が来ぬまま、ライヒシュタット公が死ぬようなことがあれば、国民は、決して、
皇族の、ひいては、皇帝の権威の失墜を、メッテルニヒは恐れた。
国民の怒りを、メッテルニヒは、イタリアへ書き送った。
皇帝から、すでに娘は、シェーンブルンへ向けて旅立つ決意を固めている、と、返事が届いた。
「
出発が遅れたのは、彼女もまた、病気だったからだ。発熱し、咳を伴っていた。
私は、彼女もまた、肺病の犠牲になっているのではないかと、非常に恐れている。
」
皇帝は、書き添えている。
当初、マリー・ルイーゼの出立は、11日の予定だった。
9日遅れて、6月20日、彼女の息子に、最期の秘跡が与えられた、まさにその日。
マリー・ルイーゼは、トリエステの
*
秘跡を与えられてから、プリンスには、苦しみが続いた。
眠れない夜が続き、体力はひどく消耗した。咳と汗、そして、熱が戻ってきた。
所詮、隠し通すことなど、不可能だったのだ。
あれが、秘跡の儀だったことを。
ハプスブルク家の一員として、彼は、神から、死を宣告されたのだということを!
秘跡を授けたのは、間違いだったのではないかと、モルは思った。
あまりの苦しみを見かね、モルは、マルファッティの
手をかざすだけなら、自分にもできそうに、思われたのだ。
プリンスの腹部に手をかざすと、彼は少しだけ、落ち着いたように感じられた。
だが、一時のことだった。
容態は、悪くなる一方だった。
彼は全く、死んだようだった。
それなのに、瞳の色だけが、驚くほど鮮やかな青に変わった。付き人たちは、彼の目を、長く見ていることができなかった。
迫りくる危機に備え、ついに、夜も、サブ・ドクターがつけられることになった。
心配して訪ねてくる親族も、彼には、負担になった。
仲のいいF・カール大公や、大好きなゾフィー大公妃の訪問さえ、断らなければならない日もあった。
「誰も、僕を助けることはできない。もう平安なんて、墓の中にしかないんだ」
フェルディナンド大公は、次期皇帝だ。理由はわからないが、プリンスはどうも、この大公を嫌っているらしい。結局、モルは、
「もう少し、辛抱なさいませ」
激しく咳き込むプリンスに、モルが諭す。
「もう少し待てば、きっと……」
そこで言葉を濁した。
実は、トリエステを発ったマリー・ルイーゼから、明日、シェーンブルンに到着するというメッセージが、入ってきていた。
しかし、確実ではない。来る来ると言っておいて、ここまで引き伸ばされた。
病に苦しむプリンスに、これ以上、無駄な期待を抱かせるのは、彼の身の回りの人々には、忍びなかった。
「待て? 僕は、充分待った!」
せいいっぱいの叫び声を、プリンスが上げた。
胸からほとばしるような、悲痛な声だった。
「僕はもう、何も期待していない!」
呼吸は重くなり、頭部がひどく熱かった。息苦しさに脈は乱れ、声枯れは、喉を締め上げる。
彼は、弱り切っていた。
……それなのに、彼は、側にいてくれと言わない。
夜になれば、あいかわらず、「Guten Abend」の一言で、モルは、退出を命じられてしまう。自分は、一晩中だって、彼に、本を読んであげられるのに。
……侍従にも、もうすっかり元気になった、などとアピールしていた。
全て、プリンスの鎖された性格のせいだと、モルは、恨めしかった。
あんなに心配して訪ねてくる叔父たちにも、彼は、会いたがらない。
……最期まで、人を寄せ付けないおつもりなのか。
上官は冷たい人なのだ、と、改めてモルは思った。
長いこと、病室に籠もりきりでいたせいだろうか。ひどく気が塞ぐ。
新鮮な空気を求めて、モルは、庭に出た。
シェーンブルンには、皇帝自らが、手入れをしている庭園もある。
庭にはいつくばっている庭師に、皇帝はどこだと声をかけたら、それが皇帝だった……
……という、気まずい思いをした来客が、どれだけいたことか。
皇帝は、
プリンスは、全力で隠している。だが、時折、柔らかな優しさを感じることが、確かに、モルにはあった。
彼は、本当は、花を愛する、優しい若者なのだ。
……。
モルは俯いて歩いていた。6月の庭の美しさも、目には入らない。
不意に、重いブーツの、足と足の間の地面が動いた。
蛇だ。
黒い蛇が、嘲るようにゆっくりと、モルの股ぐらをくぐり抜けていた。大の男の、腕ほどの太さのある蛇だ。長さも、結構ある。体のあちこちに散った赤い斑点が、禍々しい。
「わっ!」
思わずモルは飛び退いだ。
濃い緑の芝草の上を、黒い蛇は、悠然と、城へ向かってうねっていく。
その時、頭上から、石礫のように、何かが降ってきた。
つぐみ? ひばり?
モルは鳥の種類に詳しくない。小さな小汚い鳥だった。
そいつが、蛇めがけてつっこんだ。自分の体の、何倍もの大きさのある蛇の、真ん中辺に着地した。
鱗の間に、爪がひっかかったのだろうか。ばたばたと羽を動かしている。多少、うるさそうだったが、蛇は、全く気にしていない。どこ吹く風だ。
……無茶だ!
だが、次の瞬間、鳥は、空へと飛び上がった。黒い蛇を、しっかり、両足につかんで。
もちろん、高く飛ぶことはできない。子どもの背丈くらいの高さを、よろよろと飛んでいく。
空中に吊り下げられた蛇が、怒って、鎌首をもたげた。鳥に噛みつこうとする。だが、今少しのところで届かない。
呆気に取られて見ているモルの前を、鳥は、城とは反対の方向に飛んでいった。
森に入り、蛇と鳥の、異様な姿は、見えなくなった。
……力尽きた時に、あの鳥は、蛇に食い殺されるのだろう。
モルは、気の毒に思った。
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