母、来る
6月24日。
フランソワには、眠れない一夜が明けた。夜が明けきってから、ようやく眠りに落ちた。午前中は、死んだように眠り、午後になっても、断続的に眠りは続いた。
夕方6時半。
4頭立てのランドー(4輪馬車。幌が前後に別々に開き、座席が前後に2つある)が、シェーンブルン宮殿の車寄せに到着した。
中から、マリー・ルイーゼが下りてきた。途中まで出迎えに行っていたディートリヒシュタイン伯爵と、パルマの執政官・マレシャルと、女官も出てきた。
宮殿から、
大公夫妻の後、
マリー・ルイーゼは、すすり泣き、細かく震えていた。
フランソワは眠っていた。
一同は、マリー・ルイーゼの宿泊する部屋へ移動した。
すぐに伝令が現れ、プリンスが目を覚ましたと伝えた。
母が部屋へ入ってくるのを見て、フランソワは、ベッドの上で硬直した。
落ち窪んだ目が、大きく見開かれる。
殆ど骨と皮ばかりの腕を彼女の方に差し出し、必死で起き上がろうとした。
だが、その努力は虚しかった。彼はベッドに崩れ落ちた。
「いいのよ、フランツ」
震える声で、母は言った。
「これからは、私がそばにいるわ。昼でも夜でも、好きな時に呼んでいいのよ。だけど、一人になりたかったら、あなたはいつでも、一人になれる」
彼女は、ベッドに歩み寄った。
息子にキスをする。
母子を残し、人々は、部屋を出た。
マリー・ルイーゼは、45分ほど、息子のところにいた。
プリンスを部屋に残し、一同は、彼女の居室へ戻った。
ディートリヒシュタイン伯爵、パルマの執政官マレシャル、そして、マルファッティ医師とハルトマン将軍が、同行する。
マリー・ルイーゼは、やせ衰えた息子の姿に、打ちのめされていた。
確かに、トリエステで
しかし、ここまでとは……。
2年前には、あんなに健康だった息子が。
マルファティ医師とハルトマン将軍からの報告だって、常に、楽観的だったではないか。
「私は、真実を知りたいと思います」
一同を見渡し、彼女は言った。
「マルファッティ医師からの手紙では、息子は、ずっと、肌と肝臓の病だとありました。成長期の一過性の不調、あるいは、治りきらないカタルだと」
ディートリヒシュタインが、肩を聳やかした。
彼は、切羽詰まった手紙を、何通も、パルマへ書き送っている。
「ここまで息子の病気が悪化した原因を、私は知りたい」
すでに、メッテルニヒが、結核を認めている。それ以前から、フランスや、ウィーンの新聞は、ためいらいなく、結核を指摘していた。
「息子の結核が、悪化した状況と、原因を知りたいのです」
一同の目が、マルファッティ医師に集まった。
……どうしろというのだ。
……結核を隠せとは、宰相の命令だったのだぞ。
だが、ここでそれを言うわけにはいかない。ゾフィー大公妃のお産が近づいている。彼女は、将来の国母だ。彼女の産んだ子が、次の世代の、この国の皇帝となる。
ゾフィー大公妃の、主任医師の座を、マルファッティは、失いたくなかった。
彼は、咳払いした。
「全ては、プリンスのせいです」
落ち着いた声で、堂々と言ってのけた。
「彼は、軍務にのめりこんだ。医師の制止も聞かず、無謀な訓練を続けた。私は何度も忠告しました。このまま軍務を続けたら、恐ろしい結果を招くと。だが、彼は、私の言うことを、一切、聞こうとしなかった。行き過ぎた軍務への傾倒のせいです。この災厄は、彼自らが、招いたものだ」
「それでも、あなたは、彼を止めるべきだった」
割れるような声で叫んだのは、ディートリヒシュタインだった。
「医者として、専門職として、あなたは、プリンスを、止めるべきだったのだ」
負けずに、侍医は言い募った。
「その上、彼は、自分の病気を、周囲に隠し続け、治療方針を、誤った方向に導いた」
「あんなにひどい咳と、熱が続いていたのだ。あなたには、医師の権限をもって、彼に休養を命じることができたはずだ。彼を、寝室に閉じ込めておくべきだったのだ!」
医師の言うことなど、耳も貸さず、ディートリヒシュタインが糾弾を続ける。
さんざん、マルファッティのことを、ヤブ医者と罵り続けてきた頑固者だ。
マルファッティの中で、何かが弾け飛んだ。
彼は、ディートリヒシュタインを睨みつけた。
「20歳の青年を、6歳の子どものように扱うことなど、できるものか!」
しんと、一同が静まり返った。
マルファッティは我に返った。
彼の中で、メッテルニヒへの恨みが、鎌首をもたげた。思うように治療できなかったのは、プリンスのせいではない。宰相のせいだ。
ややトーンダウンし、彼は付け足した。
「しかし、彼だけに責任があるのではないことも、言い添えておく」
「それは、メッテルニヒのことか?」
再び、歯に衣着せぬ追及の声が上がった。
「宰相が、転地療法を妨げたことが、プリンスの結核悪化を招いたのだな?」
「……」
上座の、マリー・ルイーゼが俯いた。
しつこく訪れを促す、ディートリヒシュタインの嘆願を、もし、彼女が聞き入れていたなら。
せめて、この春にでも、ウィーンを訪れていたら! そして、
だが、全ては虚しかった。
なにもせぬまま、時は流れた。
彼女の息子は、死にかけている。
*
翌朝。
マリー・ルイーゼが来ると、知らせがあった。
母を迎えるため、フランソワは着替えようとした。
しかし、服を着て立ち上がったほんの僅かの間に、彼は、眠りに落ちてしまった。
マリー・ルイーゼは、控えの間まで来ている。
着替えを手伝った侍従から話を聞き、モルはそっと寝室に入った。
わずかな衣擦れの音に、プリンスが目を覚ました。
「お母様がいらしています。お起きになりますか? それとも、ベッドの中でお迎えになられますか?」
プリンスは答えなかった。じっとモルを見つめている。
同じ問いを、モルは繰り返した。
「ベッドの中で」
まだ躊躇しつつ、彼は答えた。
礼儀を重んじるプリンスにとって、ベッドで人を迎えるなど、初めてのことだった。
母だからこそ。
それは彼が自分に許した、母への甘えだった。
マリー・ルイーゼは、息子が、ゆうべより、元気そうに見えると、喜んでいた。
だが、それは、彼女の見間違いだった。
夜の人工的な明かりの下より、日中の自然光の中で見たほうが、病人は、きちんとして見えるものだ。
去り際に、彼女は息子を、しっかりと抱きしめた。
20分ほどの滞在だった。
「あなたのことは、息子からの手紙で、よく聞いています」
待機していたモルに、マリー・ルイーゼは言った。
昨日、到着した時から、すでに彼女はモルに、好意を抱いているようだった。
プリンスが自分を褒めてくれたのだと、モルは、わかった。
マリー・ルイーゼは、辺りを見回した。他に人がいないのを確かめると、小声で囁いた。
「医師のマルファッティは、私に嘘をつき続けたわ。あの子の具合は、大したことないって……。マルファッティは、危険な男よ」
「……」
モルには、答えかねた。
なおも、マリー・ルイーゼは言い募る。
「こうして私が病室から離れると、あの子には、助けがいなくなる。ここに来るのが遅れたのは、医師たちの誤った報告のせいよ。それなのに、彼らは、また、私が彼を助けることを邪魔しようとしているんだわ」
……助けがいなくなる。
こう言った時、彼女の頬を、すうーっと涙が流れ落ちた。
それは、ゆっくりと乾いていった。
到着翌日のこの日。
マリー・ルイーゼは、4回、息子の元を訪れた。各々、20分くらいずつの、滞在だった。
*
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