母との齟齬



 秘跡の儀を受けさせるために、しばしば訪れていたワーグナー司祭を、今も、プリンスは、忌み嫌っていた。


 シェーンブルン宮殿に来てから、プリンスは、「死」から、目をそらしているように、モルには感じられた。


 それは、死に近づいた者の、当然の権利といえよう。もしかしたら、気持ちが上向くことによって、ある程度の回復が望めたかもしれないのだ。

 あるいは、死までの日々の、質の向上が。


 それなのに、ワーグナー司祭は、迫りくる死の存在を誇示した。プリンスを、強引に、死に向き直らせた。

 それが、先日行われた、「秘跡の儀」の正体だ。


 プリンスには、普通の聖餐授与だと思わせるよう、様々な工夫が凝らされた。司祭は普段の法服だったし、参列した人々は、プリンスの住居には入ってこなかった。


 それでも、プリンスには、あれが、秘跡の犠だと、わかっていた。

 自分が、死を宣告されたことを、悟ったのだ。


 秘跡は、滞りなく済んだ。それなのになお、ワーグナーは、プリンスの元を訪れる。



 「Der Secctore!(イタリア語。邪魔者。いやなやつ。罵倒表現) 司祭は僕を、一人にしたくないのか。彼は毎日やって来る!」

 司祭の姿が見えなくなるやいなや、プリンスが叫ぶ。


 時には、司祭はまだ完全に退出しきっておらず、プリンスの罵声が聞こえてしまったことさえあった。


 ……秘跡の儀など行ったからだ。

苦々しい思いで、モルはワーグナーを見送った。


 あの晩、プリンスが、どれほど苦しんだことか。明らかに、病気の苦しみとは違った。精神にダメージを受けた苦痛だった。



 「確かに、司祭の立ち会いは必要ありません」

プリンスに向かい、ついに、モルは言った。

「司祭は、あなたへの訪問を、止めるべきです」


「僕に賛成するのか? モル、お前が?」

プリンスが、目を丸くした。

「なんて奇跡だ」




 続くプリンスの侮蔑に、さすがの宮廷司祭も、表情を隠すのが難しくなっていった。

 プリンスを訪問しても、部屋に入れてもらえないことさえあった。

 ワーグナー師が、憤慨して帰っていくと、プリンスはひどく喜んだ。


 ……なるほど、司祭には、もう、プリンスを傷つけることはできまい。

 ……だってプリンスは、もうすぐ死ぬんだから。


 彼に対し、強引に、秘跡の儀を挙行したのは、ワーグナー司祭だ。

 プリンスをひどく傷つけ、苦しめたのは、ワーグナー自身にほかならない。

 あるいは、信仰という名の思考停止、または、神の名を借りた鈍感さ。

 モルもまた、ワーグナーを信じられなくなっていた。







 マリー・ルイーゼは、日に数度、各々数十分ぐらいずつ、息子の病室を訪れた。


 すぐに彼女は、息子が、自分に、はかばかしく反応しないことに気がついた。うつらうつらと、眠ってばかりいる。

 もっと人前に出なければダメだ、と彼女は考えた。人と、コミュニケーションをとらせなければ……。


 すぐに彼女は、F・カール大公妹夫婦サレルノ公夫妻、ディートリヒシュタイン伯爵を伴って、現れるようになった。


 大勢の来訪は、フランソワを疲れさせた。

 主治医としてマルファッティは、皇族方の訪問を斥けるようになった。母親の訪れでさえ、時として、遠慮してもらうことがあった。



「ベッドは、僕よりも強いんだ」

 フランソワが言い訳している。

「ベッドは、悪魔の爪で、僕を捕まえる。いったい、僕はいつ、治るんだろう。本当に、元気になれるのか……」

 最後の方は、消え入るようだった。







 朝、出勤してきたモルは、マリー・ルイーゼが来ているのに、部屋に入ってしまった。

 慌てて出ようとしたが、彼女の方が、彼を引き止めた。

 しばらく、モルは、二人と同席した。



「お邪魔をしてしまい、申し訳ありませんでした」

 母親が退出すると、モルはプリンスに謝った。


「いや、お前がいてくれて助かった。母もだ」

細い声が言った。

「僕には、母が何と言っているかわからない」


 聞こえないのだ。それで、彼は、彼女の質問に答えることができない。

 マリー・ルイーゼもまた、自分の問いに、あまり答えようとしない息子を持て余していた。

 二人の橋渡しを、モルは果たしたのだ。


 ちらりと、プリンスが、モルを見た。

「Elle me gene!」(彼女は僕を悩ませる!)


 フランス語だった。

 モルは、はっとした。


 母の声は小さく、自分には、殆ど聞き取れないのだと、プリンスは打ち明けた。


「ひょっとして、僕の耳はもう、ダメなんだろうか」

「そんなことはありません」

はっきりとモルは否定した。

「私の声は、聞こえるでしょう?」


 プリンスは、左の耳が聞こえづらくなっている。だから、モルは、いつも、彼の右側に座る。

 そして、大きめの声で、はっきりした発音を心がけている。


 しかし、マリー・ルイーゼには、そのような気遣いはできない。

 深窓で育った彼女の声は、ごく小さく、普通にしていても聞き取りづらかった。


「僕に何か話してくれないか?」

 自分の耳を試すつもりなのだろう。プリンスが言った。

 必死の目をしている。


 モルは、彼に微笑みかけた。

「街で聞いたんですが、珍しい花火が打ち上げられるそうですよ……」

 彼は、街の噂や、その日仕入れたニュースを、途切れなく話し続けた。


 母の言葉を聞き取ろうと、体力を使い果たしてしまったのだろう。

 プリンスは、うつらうつらとし始めた。





 その日、プリンスは、具合が悪かった。もうすぐ強い熱が出る兆候が出ていた。



 昼間、マリー・ルイーゼが、パルマから同行してきた伯爵夫人を伴って、訪れた。

 モルは、プリンスはお腹の調子が悪いから、と言って、滞在を、10分ほど早く切り上げてもらった。



 夜、再び、マリー・ルイーゼは、病室を訪れた。この時は、マルファッティ医師が、彼女を部屋に入れなかった。


 マリー・ルイーゼは、たいして、残念そうでもなかった。病状を心配する様子も見せない。

 息子に、おやすみと伝えてくれと言って、去っていった。



 「すると、母は、今夜はもう、来ないんだね?」

 モルから聞いたプリンスは、ほっとしたようにつぶやいた。





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