初夜?
霧雨が降っていた。
コンピエーヌも近くなった森の中で、御者は目を凝らした。
行く手に立ちふさがっている男がいる!
馬車は急停車し、護衛隊長が、剣を抜いて駆け寄った。
彼の視力が良くて、幸いだった。
「陛下!」
護衛隊長は立ち止まり、最敬礼した。
ナポレオンは頷き、マリー・ルイーゼの乗る馬車に乗り込んでいった。
彼はそれまで、花嫁の容貌について、確信がなかった。
肖像画は送られているが、確認できたのは、「ハプスブルクの唇(受け口で有名)」だけだった。
直接会った大使始め、ちらりと見ただけという軍曹にまで、その印象を聞きまくった。
誰も、美人だと言わなかった。
コンピエーヌの城で待っていて、彼は、待ちきれなくなった。
ついに、腹心ミュラ元帥(妹の夫である彼とは、同じ女を共有したことがある)を連れて、雨でぬかるんだ道を、花嫁の元へ馬を走らせたのである。
*
コンピエーヌの城で待ち受けていたナポレオンの弟、ルイは、完璧な仕草で馬車の扉を開けた。いよいよ、兄の妻となる人、帝国の花嫁と対面するのだ。
すでに夜も遅い時間だった。馬車の中は暗い。そこに兄の姿を見つけ、ルイは仰天した。
ナポレオンとマリー・ルイーゼは、邪魔者を降ろし、二人きりで同じ馬車に乗っていた。
花嫁と同乗している筈の妹、カロリーヌは別の馬車に、夫のミュラ元帥と乗っていた。久しぶりで夫と長い時間を過ごしたカロリーヌの頬は、つやつやとしていた。
だが、夫の方は意気消沈していた。
カロリーヌがオーストリア外相、メッテルニヒと浮気をしていることを知っていたからである。ちなみに、彼女が、花嫁の叔父、トスカーナ大公フェルディナントに秋波を送っているのも知っていた。このフェルディナント大公は、ナポレオンに初めて接触してきたハプスブルク側の人間だから、表立って抗議もできない。
ミュラ自身も、決して潔白ではなかったが、でも、男と女は違う。そこのところが、どうしてわからないのだろう。
ナポレオンの妹だからか?
夜も遅いということで、公式晩餐会は延期された。
「それで、二人は、今どこに?」
ふと気づき、ルイは尋ねた。
花嫁を迎える儀式が行われず、彼は機嫌を損ねていた。最初に馬車の扉を開けるという重役を担った彼は、決められた文言を、呆れるほど何度も何度も練習していた。いったい、プロトコルは、どうなってしまったというのだ!
憮然とするルイに返ってきたひそひそ声は、いっそ彼を赤面させた。
「二人はベッドにいる」
*
これは、プロトコル以前の問題だった。
オーストリアから随行したシュヴァルツェンベルク大使は、怒り狂っていた。彼は、メッテルニヒ外相の信頼は失う一方だったが、軍人出身で、曲がったことが大嫌いだった。
「こんなこと、お父様の皇帝陛下に何とお伝えしたらいいのでしょう」
同じく同行してきたメッテルニヒ夫人エレオノーレも途方に暮れている。
シュヴァルツェンベルクは、声を荒らげた。
「我が国皇女に、重大な非礼が働かれたのですぞ。正式な結婚式前に、大公女を連れ去るとは。しかも、我々の目の前で。これでは、拉致同然ではないか」
憤然として、彼は言い放った。
「ぜひとも、オーストリア政府から正式な抗議、いや、制裁を加えないと」
「でも、マリー・ルイーゼ皇妃の名誉に、傷がつくことにならないかしら……」
臣下として、皇帝に全く報告しないわけにはいかなかった。誰の口からどう伝わるか、わかったものではないからだ。
二人は互いに落ち着くのを待ち、報告の文面を練り上げた。
「皇帝陛下におかれましては、皇妃の健康を配慮し、予定を繰り上げ、遠路はるばるお迎えに来られました。皇妃に対しては、大変優しくしておられます」
これ以上、どう書けばよかったのだろう……。
翌朝、さすがに兄妹たちから責められたナポレオンは、けろっとして答えた。
「代理結婚式は済んでいるからな。構いはしないよ」
*
1810年。肌寒い、エイプリル・フールの日。
サン・クルー宮殿で、世俗の結婚式が行われた。
ナポレオンは、真っ赤なマントを纏い、マリー・ルイーゼは、銀色のウェディングドレスに、エメラルドの首飾りをつけていた。
際立っていたのは、二人の身長差だった。
マリー・ルイーゼは、女性にしては、背の高いほうだったのだ。
登記係のカンバセレス大法官が二人の結婚を公式に宣言し、ナポレオンの母、レティシアを始め、100人ほどが、証人として署名した。
翌日は、朝から激しい雹が、パリを襲った。
やがて黒雲が立ち去り、薄日が差す中、行列は、ルーブルへ向かった。
新郎新婦の乗る馬車は、市民から中が見えるように、鏡板の代わりに、ガラスが使われていた。
マリー・ルイーゼは、毛皮で縁取りされたサテンのドレスの上に、ダイヤモンドをちりばめたローブを纏っていた。頭には、重そうな冠を載せている。
ナポレオンの衣装には、スペイン風の白いサテンを用いていた。その上に、金色のフリル、同じく金ビーズで飾り立てたマントを羽織っている。頭には、ベルベットの帽子を被っていた。
ルーブル宮殿
そこで、宗教上の結婚式が行われた。
今回も、ナポレオンの叔父、フェシュ枢機卿が、二人の結婚を聖別した。
礼拝堂には、28人の枢機卿が招かれていた。
全員が、昨日、サン・クルーで行われた世俗の結婚式には出席している。
しかし、ルーブルで行われた宗教上の結婚式には、そのうちの、13人の枢機卿が欠席していた。
彼らは、ジョセフィーヌとの離婚に、教皇ピウス7世の婚姻無効宣言がなかったことを、危惧していた。しかもその教皇は、今現在、ナポレオンにより拉致、監禁されている。
教皇が不在なのに、ナポレオンの離婚が、神の御前で認められるわけがない。そして、離婚しないままの結婚は、重婚の罪を犯すことになる……。
13人の枢機卿は、固く、神の教えを信じていた。彼らは、宗教上の結婚式への出席を拒んだ。
がらがらの大広間を見たナポレオンは、怒りに震えた。かりにも、新婦の……オーストリア側の賓客の前で、恥をかかされたのだ。オーストリアは、厳格なカトリック国家だから、その怒りは、深甚だった。
だが、一時間もしないうちに、彼は、表面上の快活さを取り戻した。
以後、式典は、プロトコルを厳重に遵守して、進行していった。それは全く、肩が凝るほどの息苦しさだった。
夜の7時。数百人の客が、テュイルリーの「壮観の間」に集まった。ここで、結婚を祝う宴が催されるのだ。
「ナポレオン、我らが皇帝に、乾杯」
「麗しきに皇妃に、乾杯」
「オーストリア皇帝に。乾杯」
ひとしきり、乾杯が続いた。
「みなさん!」
オーストリア外相、メッテルニヒが、立ち上がった。シャンパンのグラスを手にしている。
「大切な人を忘れております」
メッテルニヒは、得意満面の表情で、高々とグラスを掲げた。
「ローマ王、乾杯!」
「ローマ王」というのは、神聖ローマ帝国の次期国王の名称である。この名称は、古代ローマ帝国から続いている。
ほぼハプスブルク家の世襲のようになっていたが、神聖ローマ帝国皇帝は、7人の選帝侯によって選出される。世俗の4人と聖職者の3人である。
選帝侯により選出された皇帝候補者、即ち、皇帝の戴冠前を、「ローマ王」という。平たく言えば、神聖ローマ帝国の皇太子のことだ。
……「ローマ王、万歳」
だから、皇女を売るのかど、どんなに非難されようと、積極的にマリー・ルイーゼとナポレオンとの仲を取り持ってきた。
ウィーン会議以降の彼の行動を思うと皮肉を感じずにはいられないが、メッテルニヒは、「ハプスブルク家のプリンス」を、フランス王に据えようと目論んでいたのだ。
……「ローマ王、万歳」
彼が祭り上げた「ローマ王」とは、未だ影さえ見えぬ、ナポレオンとマリー・ルイーゼの間の子どものことだ。
その子こそが、フランス帝国の正統な後継者。
なおかつ、彼は、今は亡き、神聖ローマ帝国の、ひいては、古代ローマ帝国の、真の後継者。
この婚儀により、ローマ帝国の後継者、ローマ王は、そのまま、フランス帝国の後継者になるのだ。
……オーストリア外相は、フランスの発展を寿いでいるのか?
……ローマ帝国を超える、さらなる発展を。
居合わせた客たちは、互いに顔を見合わせた。
雛壇の上のナポレオンは、満足そうに頷いている。隣の新婦は、ぼうっと、上気した顔をしていた。
「ローマ王、乾杯!」
次の瞬間、客たちは、我先にと唱和した。そして、近くの人と、割れんばかりに、グラスを合わせた。
*
2日後。
宗教上の結婚式を欠席した、13人の枢機卿が、テュイルリー宮に呼び出された。
彼らは、謁見の間で二時間待たされたあげく、ようやく現れた近衛将校により、宮殿からの放逐を言い渡された。
帰ろうとした彼らの、しかし、馬車が消えていた。
大勢の野次馬の無遠慮な視線を浴び、正装したままの枢機卿達は、徒歩で、自宅まで帰らなければならなった。
後日、ナポレオンは彼らをパリから追放し、さらに、緋色のローブの着用も禁じた。
彼らは、「黒の枢機卿」と呼ばれるようになった。
*
ところで、肝心のマリー・ルイーゼには、結婚式の記憶が、殆どない。
帝国の重要人物、1500人以上から挨拶されたのだが、誰一人、顔を覚えられなかった。
彼女は、終始、気分が優れなかった。頭に乗せたダイヤモンドの冠が、あまりに重すぎたからだ。
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