初夜?

 霧雨が降っていた。

 コンピエーヌも近くなった森の中で、御者は目を凝らした。

 行く手に立ちふさがっている男がいる!


 馬車は急停車し、護衛隊長が、剣を抜いて駆け寄った。

 彼の視力が良くて、幸いだった。

「陛下!」

護衛隊長は立ち止まり、最敬礼した。


 ナポレオンは頷き、マリー・ルイーゼの乗る馬車に乗り込んでいった。



 彼はそれまで、花嫁の容貌について、確信がなかった。

 肖像画は送られているが、確認できたのは、「ハプスブルクの唇(受け口で有名)」だけだった。

 直接会った大使始め、ちらりと見ただけという軍曹にまで、その印象を聞きまくった。

 誰も、美人だと言わなかった。

 コンピエーヌの城で待っていて、彼は、待ちきれなくなった。

 ついに、腹心ミュラ元帥(妹の夫である彼とは、同じ女を共有したことがある)を連れて、雨でぬかるんだ道を、花嫁の元へ馬を走らせたのである。



 コンピエーヌの城で待ち受けていたナポレオンの弟、ルイは、完璧な仕草で馬車の扉を開けた。いよいよ、兄の妻となる人、帝国の花嫁と対面するのだ。

 すでに夜も遅い時間だった。馬車の中は暗い。そこに兄の姿を見つけ、ルイは仰天した。

 ナポレオンとマリー・ルイーゼは、邪魔者を降ろし、二人きりで同じ馬車に乗っていた。


 花嫁と同乗している筈の妹、カロリーヌは別の馬車に、夫のミュラ元帥と乗っていた。久しぶりで夫と長い時間を過ごしたカロリーヌの頬は、つやつやとしていた。


 だが、夫の方は意気消沈していた。

 カロリーヌがオーストリア外相、メッテルニヒと浮気をしていることを知っていたからである。ちなみに、彼女が、花嫁の叔父、トスカーナ大公フェルディナントに秋波を送っているのも知っていた。このフェルディナント大公は、ナポレオンに初めて接触してきたハプスブルク側の人間だから、表立って抗議もできない。

 ミュラ自身も、決して潔白ではなかったが、でも、男と女は違う。そこのところが、どうしてわからないのだろう。

 ナポレオンの妹だからか?



 夜も遅いということで、公式晩餐会は延期された。

 「それで、二人は、今どこに?」

 ふと気づき、ルイは尋ねた。

 花嫁を迎える儀式が行われず、彼は機嫌を損ねていた。最初に馬車の扉を開けるという重役を担った彼は、決められた文言を、呆れるほど何度も何度も練習していた。いったい、プロトコルは、どうなってしまったというのだ!

 憮然とするルイに返ってきたひそひそ声は、いっそ彼を赤面させた。

 「二人はベッドにいる」





 これは、プロトコル以前の問題だった。

 オーストリアから随行したシュヴァルツェンベルク大使は、怒り狂っていた。彼は、メッテルニヒ外相の信頼は失う一方だったが、軍人出身で、曲がったことが大嫌いだった。


 「こんなこと、お父様の皇帝陛下に何とお伝えしたらいいのでしょう」

 同じく同行してきたメッテルニヒ夫人エレオノーレも途方に暮れている。

 シュヴァルツェンベルクは、声を荒らげた。

 「我が国皇女に、重大な非礼が働かれたのですぞ。正式な結婚式前に、大公女を連れ去るとは。しかも、我々の目の前で。これでは、拉致同然ではないか」

憤然として、彼は言い放った。

「ぜひとも、オーストリア政府から正式な抗議、いや、制裁を加えないと」


「でも、マリー・ルイーゼ皇妃の名誉に、傷がつくことにならないかしら……」


 臣下として、皇帝に全く報告しないわけにはいかなかった。誰の口からどう伝わるか、わかったものではないからだ。

 二人は互いに落ち着くのを待ち、報告の文面を練り上げた。


「皇帝陛下におかれましては、皇妃の健康を配慮し、予定を繰り上げ、遠路はるばるお迎えに来られました。皇妃に対しては、


 これ以上、どう書けばよかったのだろう……。




 翌朝、さすがに兄妹たちから責められたナポレオンは、けろっとして答えた。

「代理結婚式は済んでいるからな。構いはしないよ」







 1810年。肌寒い、エイプリル・フールの日。

 サン・クルー宮殿で、世俗の結婚式が行われた。


 ナポレオンは、真っ赤なマントを纏い、マリー・ルイーゼは、銀色のウェディングドレスに、エメラルドの首飾りをつけていた。

 際立っていたのは、二人の身長差だった。

 マリー・ルイーゼは、女性にしては、背の高いほうだったのだ。


 登記係のカンバセレス大法官が二人の結婚を公式に宣言し、ナポレオンの母、レティシアを始め、100人ほどが、証人として署名した。



 翌日は、朝から激しい雹が、パリを襲った。

 やがて黒雲が立ち去り、薄日が差す中、行列は、ルーブルへ向かった。


 新郎新婦の乗る馬車は、市民から中が見えるように、鏡板の代わりに、ガラスが使われていた。

 マリー・ルイーゼは、毛皮で縁取りされたサテンのドレスの上に、ダイヤモンドをちりばめたローブを纏っていた。頭には、重そうな冠を載せている。

 ナポレオンの衣装には、スペイン風の白いサテンを用いていた。その上に、金色のフリル、同じく金ビーズで飾り立てたマントを羽織っている。頭には、ベルベットの帽子を被っていた。


 ルーブル宮殿方形の間サロン・カレは、臨時の礼拝堂に改装されていた。

 そこで、宗教上の結婚式が行われた。

 今回も、ナポレオンの叔父、フェシュ枢機卿が、二人の結婚を聖別した。


 礼拝堂には、28人の枢機卿が招かれていた。

 全員が、昨日、サン・クルーで行われた世俗の結婚式には出席している。

 しかし、ルーブルで行われた宗教上の結婚式には、そのうちの、13人の枢機卿が欠席していた。

 彼らは、ジョセフィーヌとの離婚に、教皇ピウス7世の婚姻無効宣言がなかったことを、危惧していた。しかもその教皇は、今現在、ナポレオンにより拉致、監禁されている。

 教皇が不在なのに、ナポレオンの離婚が、神の御前で認められるわけがない。そして、離婚しないままの結婚は、重婚の罪を犯すことになる……。

 13人の枢機卿は、固く、神の教えを信じていた。彼らは、宗教上の結婚式への出席を拒んだ。


 がらがらの大広間を見たナポレオンは、怒りに震えた。かりにも、新婦の……オーストリア側の賓客の前で、恥をかかされたのだ。オーストリアは、厳格なカトリック国家だから、その怒りは、深甚だった。


 だが、一時間もしないうちに、彼は、表面上の快活さを取り戻した。

 以後、式典は、プロトコルを厳重に遵守して、進行していった。それは全く、肩が凝るほどの息苦しさだった。



 夜の7時。数百人の客が、テュイルリーの「壮観の間」に集まった。ここで、結婚を祝う宴が催されるのだ。


「ナポレオン、我らが皇帝に、乾杯」

「麗しきに皇妃に、乾杯」

「オーストリア皇帝に。乾杯」

ひとしきり、乾杯が続いた。


 「みなさん!」

オーストリア外相、メッテルニヒが、立ち上がった。シャンパンのグラスを手にしている。

「大切な人を忘れております」

メッテルニヒは、得意満面の表情で、高々とグラスを掲げた。

「ローマ王、乾杯!」



 「ローマ王」というのは、神聖ローマ帝国の次期国王の名称である。この名称は、古代ローマ帝国から続いている。


 ほぼハプスブルク家の世襲のようになっていたが、神聖ローマ帝国皇帝は、7人の選帝侯によって選出される。世俗の4人と聖職者の3人である。

 選帝侯により選出された皇帝候補者、即ち、皇帝の戴冠前を、「ローマ王」という。平たく言えば、神聖ローマ帝国の皇太子のことだ。


 ……「ローマ王、万歳」

 外相メッテルニヒは、新興フランス王家にハプスブルク家の血が混じるのを、歓迎していた。

 だから、皇女を売るのかど、どんなに非難されようと、積極的にマリー・ルイーゼとナポレオンとの仲を取り持ってきた。

 ウィーン会議以降の彼の行動を思うと皮肉を感じずにはいられないが、メッテルニヒは、「ハプスブルク家のプリンス」を、フランス王に据えようと目論んでいたのだ。


 ……「ローマ王、万歳」

 彼が祭り上げた「ローマ王」とは、未だ影さえ見えぬ、ナポレオンとマリー・ルイーゼの間の子どものことだ。

 その子こそが、フランス帝国の正統な後継者。

 なおかつ、彼は、今は亡き、神聖ローマ帝国の、ひいては、古代ローマ帝国の、真の後継者。

 この婚儀により、ローマ帝国の後継者、ローマ王は、そのまま、フランス帝国の後継者になるのだ。



 ……オーストリア外相は、フランスの発展を寿いでいるのか?

 ……ローマ帝国を超える、さらなる発展を。

 居合わせた客たちは、互いに顔を見合わせた。


 雛壇の上のナポレオンは、満足そうに頷いている。隣の新婦は、ぼうっと、上気した顔をしていた。


「ローマ王、乾杯!」

 次の瞬間、客たちは、我先にと唱和した。そして、近くの人と、割れんばかりに、グラスを合わせた。







 2日後。

 宗教上の結婚式を欠席した、13人の枢機卿が、テュイルリー宮に呼び出された。

 彼らは、謁見の間で二時間待たされたあげく、ようやく現れた近衛将校により、宮殿からの放逐を言い渡された。


 帰ろうとした彼らの、しかし、馬車が消えていた。

 大勢の野次馬の無遠慮な視線を浴び、正装したままの枢機卿達は、徒歩で、自宅まで帰らなければならなった。


 後日、ナポレオンは彼らをパリから追放し、さらに、緋色のローブの着用も禁じた。

 彼らは、「黒の枢機卿」と呼ばれるようになった。







 ところで、肝心のマリー・ルイーゼには、結婚式の記憶が、殆どない。

 帝国の重要人物、1500人以上から挨拶されたのだが、誰一人、顔を覚えられなかった。

 彼女は、終始、気分が優れなかった。頭に乗せたダイヤモンドの冠が、あまりに重すぎたからだ。

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