懐妊


 その週末に、二人は、コンピエーヌへ戻った。

 いわゆる、新婚の蜜月の期間は、そこで過ごした。


 マリー・ルイーゼにとって、ナポレオンは、恐れていたような「悪鬼」ではなかった。それどころか、彼女の言うことを何でも聞いてくれる、年上の、優しい夫だった。


 ナポレオンは新妻に乗馬を教え、彼女は、夫を油絵に描こうとして……断念した。モデルを務めるナポレオンが、ひっきりなしに、じゃれかかってきたからである。



 コンピエーヌで3週間過ごしてから、二人は、ネーデルランドへ出かけた。ナポレオンにとっては視察だったが、実質的には、新婚旅行のような意味合いもあったのだろう。

 ナポレオンは、豪華な行幸みゆきを望み、実に33台の馬車を連ねて出発した。


 一行の中に、マリー・ルイーゼの叔父、フェルディナント大公がいた。他ならぬナポレオンの侵攻で、治めていたトスカーナ(イタリアの地方)を追われるた彼には、今、ヴュルツブルク(ドイツの地方)を与えられていた。


 他に、オーストリア外相メッテルニヒと、ナポレオンの妹、カロリーヌも、同行した。


 フェルディナントとメッテルニヒは、常に反目し、ついでに、マリー・ルイーゼに、冷たく接した。

 どうやら二人は、ナポレオンの妹、ナポリ王妃であるカロリーヌを、取り合っていたらしい。彼女の気を引くため、敢えて、ナポレオンの娶った新婦にそっけなく遇した、ということらしい。


 旅行から帰った後も、この3人は、なかなか、帰ろうとしなかった。




 オーストリア側から、返礼として、祝宴が開催された。シュヴァルツェンベルク大使が主催し、およそ1500人が招待された。


 宴が催された公邸には、著名な建築家、ベルナールが設計した舞踏会場が設営されていた。

 壁から張り出した腕木に、ろうそくのランタンが下げられ、壁には、金と銀の紋で飾られた鏡が、嵌め込まれている。天井からは、巨大なシャンデリアが吊り下がっていた。


 この舞踏会場には、人々の熱気を冷ます為に、4ヶ所の出入り口と、カーテンで飾られた窓が設けられ、風を入れられるようになっていた。

 最初のカドリール(方陣を作って踊るダンス)が終わった時点で、天候が荒れ始めた。大きく開けられた窓から、強風が吹き込んでくる。カーテンは風を孕み、キャンドルをかすめた。


 あっという間の出来事だった。


 天井が、巨大な松明のように燃え上がり、シャンデリアが、踊っている人々の上に落下した。黒煙が、本館との連絡路を絶った。

 ダンス会場は、一気呵成に、阿鼻叫喚の修羅場となった。


 この火事で、何人かの賓客が犠牲になった。シュヴァルツェンベルク大使の、義理の姉妹も亡くなった。瀕死の重症を負った者も多く、シュヴァルツェンベルク夫人は、顔に、一生消えない大やけどを負った。


 真っ先に、マリー・ルイーゼの元へ駆けつけたのは、ナポレオンの義理の息子、ウジェーヌだった。しかし彼女は冷静に、中央の雛壇に留まり、新郎が助けに来るのを待った。


 ナポレオンの妹、カロリーヌを救い出したのは、夫のミュラではなかった。それは、新婦の叔父、フェルディナント大公だった。



 火事は、40年前の、マリー・アントワネットの結婚の直後にも起きていた。この時には、千人以上が、亡くなっている。


 不幸な相似形だった。

 この火事に、落とし前をつける必要があった。


 建築家ベルナールは逮捕され、事前の安全確認を怠ったとして、警察長官が罷免された。







 新婚生活は、新郎新婦に両方にとって、満足のいく、円満なものだったという。


 ナポレオンは年若い妻を気に入り、猫可愛がりにかわいがった。

 マリー・ルイーゼも、夫を慕い、心から愛していると言い、故郷の父にもそう伝えた。







 結婚した年の、7月。

 信頼する医師のコルヴィサールが告げた。

「王妃様は、ご懐妊していらっしゃいます」


 ナポレオンは、狂喜した。

 結婚から3ヶ月半しか経っていない。なんと効率的な妊娠であろうか。ハプスブルクの妻を娶って良かったと、心から思った。


 ……あんなに毎日やりまくっていたら、できないわけがないではないか。

 腹の中で、医師は思った。

 ……皇帝はともかく、皇妃はまだ、若いのだから。


 二人のは、宮廷中の話題になっていた。

 皇帝は、人前で平気で、皇妃の頬に触れたり、耳をつねったりした。愛しげに尻を叩いている姿を見せつけられ、当惑した侍従もいる。


 ……従者の前で。少しは節度を保つべきだと思わないのか、この夫婦は。

 医師にとって、皇妃妊娠は、当然の帰結といえた。喜ぶことさえおこがましい。



 皇妃を抱きしめ、人を呼び、皇帝の喜びは、留まるところを知らない。

 そのさまをみているうちに、もし万が一、自分の診立て違いだったらどうしよう、と、コルヴィサール医師は、だんだん不安になってきた。

「陛下。妊娠はまだ初期の段階で、出産はどんなに早くても、来年の3月以降になります」

慌てて、釘を差した。




 生まれてくる子を、ナポレオンは、男の子だと信じて疑わなかった。

 少し前の5月、例のポルトガルの愛人、マリア・ワレフスカが赤ん坊を産んだのだが、これが、男の子だった。

「皇妃の生む子が、男でないわけがない!」

自信を持って皇帝は断言した。

「4年前にエレオノーラが産んだのも男の子だったし」

 ナポレオンがこう言うと、居合わせたミュラ元帥が、気まずそうに下を向いた。

 この子の父親は、ミュラである可能性もある。


「そうよ、きっと男の子よ」

傍らでミュラの妻、カロリーヌが、けろりとして断言した。子ダネがあるかの実験には失敗したが、兄ナポレオンにエレオノーラをけしかけたのは、このカロリーネである。


「子どもの名は、ローマ王だ!」

 高らかに、ナポレオンは宣言した。



 妻の父、オーストリアのフランツ帝が、神聖ローマ帝国の解体を宣言したことは、ナポレオンにとっても、衝撃だった。

 彼は、古いものは古いものなりに、尊敬していた。


 それに、南ドイツの諸邦が、雪崩をうつように自分の属国となったことからわかるように、神聖ローマ帝国は、すでに実質上、その実態を失っていた。なにもわざわざ、解体を宣言しなくてもいいのに、と思った。


 千年帝国の伝統を破壊したのは、自分のような気がして、寝覚めが悪かった。


 マリー・ルイーゼが皇妃となった今、妻の実家には権威があるに超したことはない。

 ならば、失われたその栄光を、自分の手で再び、わが子に与えよう、というのだ。


 ハプスブルクの血を引く王子に。



 ナポレオンは、傍らのマリー・ルイーゼに向かって付け加えた。

「この子は、お前の祖国に、かつての威光を取り戻してくれることになろう」

 紅潮した顔を輝かせ、マリー・ルイーゼは頷いた。

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