年表
左端の数字は年号です
【 】は、関連するヨーロッパ史です
ライヒシュタット公は、1811年3月20日生まれです
1805 【ウルム戦役、ウィーン陥落(1度目)】
【アウステルリッツの戦い】
1809 【ウィーン陥落(2度目)、アスペルンの戦い、ヴァグラムの戦い】
1810 ナポレオンとマリー・ルイーゼ、結婚
1811 3/20 午前8時20分、ローマ王誕生
1812 【ナポレオン、ロシアで敗走】
1813 【6月 メッテルニヒとナポレオン、和睦の会談。物別れ】
【10月 ライプチヒ諸国民の戦い】
1814 【3/31 パリ陥落】
5/21 マリー・ルイーゼら一行、ウィーン着
【ナポレオン、エルバ島へ流刑】
1815 【2/26 ナポレオン、エルバ島脱出】
3/21 ママ・キュー、解雇
【4/18 ワーテルローの戦い】
5/7 メルバル、帰国
【6/22 ナポレオン退位宣言(これより、ブルボン朝ルイ18世が帰還するまで、名目上のフランス王はローマ王)】
【ナポレオン、セント・ヘレナへ】
6/26 より、ディートリヒシュタイン伯爵、家庭教師に
9/6 フォレスチ、家庭教師に
10/5 フランスからの女官達、解雇
【11/16 シューベルト、「魔王」作曲】
1816 2/1 コリン、家庭教師に
4/7 オーストリア皇妃マリア・ルドヴィカ、没
2/27 フランスからの最後の女性付き人、去る
3/7 マリー・ルイーゼ、パルマへ(エミールも)
1817 【5/1 マリー・ルイーゼ、アルベルティーナ出産】
【5/13 レオポルディーネ、ブラジルへ】
【マリア・ワレフスカ、没】
1818 マリー・ルイーゼ、初めてのウィーン帰省(7月~9月)
7/22 ライヒシュタット公の称号獲得
9月、ベートーヴェン、バーデン城に招かれる
1819 【8/9 マリー・ルイーゼ、ヴィルヘルム出産】
フランソワ、伍長(将校の最下位)の制服を誂える
1820 喉の痛み。カーニバルには参加せず、引きこもって暮らす
【2/3 ベリー公(シャルル10世次男)、ナポレオン派の馬丁に暗殺される】
9歳、基礎科目、終了。軍事訓練を始める時期(正式には12歳)
7/1 メッテルニヒ娘、クレメンティン、没
マリー・ルイーゼ、来訪(7月~9月)
1821 発熱、リウマチ性疾患と診断(1月~2月か)
4/24 フランク医師(最初の主治医)、没
新しくゴリス医師。
【5/5 ナポレオン、没 マリー・ルイーゼが知ったのは、7/18】
【8/7 マリー・ルイーゼ、ナイペルクと結婚(9月とも)】
【8/15(故ナポレオンの誕生日) マリー・ルイーゼ、女児出産。年内に死去】
1822 皇室歩兵隊の軍曹に任命
【10月 ヴェローナ会議】
1823 軍事キャリア、正式スタート
マリー・ルイーゼ、来訪
1824 【2/24 ウジェーヌ、没】
5/7 ベートーヴェン、「第九」初演
【ルイ18世没、シャルル10世即位】
11/4 F・カール、ゾフィーと結婚
11/23 家庭教師コリン、没
オベナウス、家庭教師に
1825 メッテルニヒ妻、エレオノーレ、没
春、声変わり
1826 フランツ帝、重篤な病に(3月中旬~4月上旬)
5/30 マリー・ルイーゼ、来る
画学生フェルトバウアー、「あずまやに集う皇帝一家」の絵 を制作
8/24 馬車に三色旗が投げ込まれる
【ブラジルのレオポルディーネ、没】
冬 突如として変わる。学習にも真面目に取り組む(16歳の3ヶ月前くらい)
1827 2月はじめ、気管支炎か
2/20 ゴリス医師(二人目の侍医)、没。
後任にシュタウデンハイム医師着任
3/26 ベートーヴェン、没
6月 エステルハージ母子、マリー・テレーズの招待でパリへ
夏と翌年にかけての冬、しつこい空咳
メッテルニヒ、再婚
冬、湿気と寒さで引き籠って暮らす
1828 マリー・ルイーゼ、来る(皇帝「来なかったら銃殺」とまで)
この時点で、背丈は6フィートまで伸びる
8/17 チロル連隊付、騎兵大尉、任命(軍曹からの初めての昇進;母からナポレオンの、トルコ風の沿った刀貰う)
9月、ウィーン郊外の大演習に参加
11/19 シューベルト、没
【ポーランド風の民族衣装をつけたライヒシュタット公の肖像画、ポーランドでばらまかれる】
1829 1月、フランスの詩人、バーソロミー、ウィーンへ。ディートリヒシュタインに追い返される
2/22 ナイペルク、没
4/5 皇帝にからマリー・ルイーゼとナイペルクが結婚していたことを聞かされる
メッテルニヒの2番めの妻、没
12/29 カール大公妃ヘンリエッテ、没
1830 この年、ザウラウ、トスカーナ大公国大使に。
4月、シュタウデンハイム(侍医)、同僚医師の立ち会いで、肺の病と診断
シュタウデンハイム(3人めの侍医)、没(4月か5月)
マルファッティ、侍医に
6/17 グラーツで、マッテチェリ、「ナポレオン、万歳!」と
6/22 プロケシュと会う
7/7or9 少佐に昇進(実務に向けての昇進)
【パリ、7月革命】
【8月 ボナパルト家、フランス政府の承認なしの住所変更を禁じられる】
8/18 フランツ・ヨーゼフ、誕生
9/28 フェルディナンド大公(時期皇帝)、ハンガリー王、即位
【10月、ベルギー、オランダより独立】
【11月 アタナス伯(フーシェの息子)、ウィーンへ使者。ナポレオンファミリーの活性化「ローマ王を返せ」】
【ポーランド、11月蜂起、ロシアに鎮圧】
【ドイツ諸邦の反乱】
11/9 ヴァーサ公、ルイーゼ・フォン・バーデンと結婚
11月、軍の3人の付き人、通い始める。アルゴスは6人に
11月 中尉に昇進(実務に向けての昇進)、プラハかブルノが赴任地候補
11/30 エリザ・ナポレオーネとの邂逅
※この年の秋、メッテルニヒの自室に招かれるか
1831 1月、外交上のデビュー、マルモン元帥と会う
2月、フェルディナンド大公、サルディニア王女と結婚
メッテルニヒ、3度めの結婚
ナンディーヌ・カロリーとの噂
冬、女優のペシェと親しくなる?
【2月、中部イタリア、蜂起、マリー・ルイーゼ、避難】
【3月初め、パリで、「ナポレオン2世、万歳!」の行進】
【3/17 ナポレオン・ルイ・ボナパルト、没】
3/18 ディートリヒシュタイン娘、ユーリア、結婚
3月末 プロケシュ、ボローニャ教皇庁大使に
5月頃 モーリツ・エステルハージ、ナポリへ
ディートリヒシュタイン、「愛の往復書簡」発見、糾弾(モーリツ・エステルハージとの文通だった)
6/14 ハンガリー第60連隊大隊長。軍務開始!
同日、ディートリヒシュタイン、家庭教師を辞任
7月はじめ、ペスト流行。シェーンブルンへ避難
7/24 ルドルフ大公(皇帝の末弟)、没
8月、憔悴しきって、シェーンブルンへ。マルファッティ医師より、2週間の休養を言い渡される
【9月、ヴィクトル・ユゴー、ジョセフ・ボナパルトへ、ナポレオン2世担ぎ出しを要請】
【11月初め、ジェローム・ボナパルト、ウィーンへ手紙をたくさん送り込む】
9/4 マルファッティより、兵営復帰許可
9/27 閲兵式で声が出ず、再びシェーンブルンへ。療養生活開始
10/1 プロケシュ、一時帰国
※この頃、皇帝と3人の孫の絵
11月、宮廷、ホーフブルクへ戻る
眠そう、憂鬱に沈む。マルファッティの勧めで、社交界へ
マリー・ルイーゼ、ラ公の部屋へナポレオンの肖像画を運ばせる
※女優、踊り子、妖婦アルマッシイとの噂は、この頃
1832 1/9 フランツ・ヨーゼフ、ゾフィー大公妃、ライヒシュタット公の閲兵を見学
1月 葬儀式典で、声が出ない。途中で指揮を放棄。重篤な症状に(2月~3月、小康状態)
2月中旬、プロケシュ、二度目のボローニャ派遣
3/19 外出中、馬車の脱輪、寒い中、歩いて帰る。高熱、左耳が聞こえなくなる
3/20 誕生日、フランツ・ヨーゼフから椿を捧げられる
【3/22 ゲーテ、没】
4月、2名の新しい医師、皇帝に結核と上奏。数ヶ月の命と
5/13 第60連隊大佐に昇格
5/22 シェーンブルン宮殿へ移される
【5/28付 ルイ・シャルル(後のナポレオン3世)、メッテルニヒに手紙。ライヒシュタット公にナポレオンの臣下への書状にサインさせてと】
【6/5-6 フランス、6月暴動】
6/9 メッテルニヒ、フランス以外ならどこへ行ってもいいと
6/9 ゲンツ、没
同日 ザウラウ、没
6/9 マルモン元帥、最後の訪問(会えず)
6/13 悪化(翌日、危機脱出を医師団、宣言)
6/17 ゾフィー大公妃、「聖餐」を受けるよう進める。返事はない
6/18 ワグナー司祭、「聖餐」を勧める。承諾
6/20 秘跡の儀(以降、症状悪化)
同夜 メッテルニヒ、アポニー・フランス大使に、ライヒシュタット公の死を宣言する手紙を書く。
同夜、メッテルニヒ、シャルル・ルイ(後のナポレオン3世)から手紙が来たと、フランス政府に通告
6/24 マリー・ルイーゼ、シェーンブルン到着
7/6 ゾフィー、マクシミリアンを出産
7/7 メッテルニヒ、マクシミリアンの洗礼に訪れ、ライヒシュタット公の病室に立ち寄る
7/8 エアラウ大司祭、ライヒシュタット公に面会
7/10 ディートリヒシュタイン、最後の訪問(娘のお産に)
7/21 プロケシュ、ローマのレティシア(ナポレオンの母)訪問
7/22 午前5時少し過ぎ、ライヒシュタット公、没
8/4 モル、メッテルニヒの食事会に呼ばれる
8/11 メッテルニヒからハルトマンへ「誰が最も彼を愛していたか」と質問(モントベールに伝記を書かせるための情報提供者の人選)
同日、プロケシュ、ウィーンへ到着
8/13 モル、プロケシュに、プリンスの最期の様子を伝える
8/19 モントベール、プロケシュに初回インタビュー
8/27 モル、チロルへ出発
11月 プロケシュ、結婚
11/19 プロケシュ、原稿をメッテルニヒに渡す。モントベールの本と同時刊行決定(刊行日は不明。年末から翌年始にかけてか)
※年内に、パリの版元から出版
1833 1月 プロケシュに、エジプト赴任の打診
2/12 メッテルニヒ主催の舞踏会でプロケシュ、モントベールの本について、ナンディーヌに苦情を言われる
3/14 プロケシュ、エジプトへ向けて発つ
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