ポーランド蜂起 2



 アシュラの眼前に、白刃の切っ先が突きつけられた。

 危ういところでそれを避け、大きな樽の後ろに駆け込む。


 ……しかし、まさか、


 追ってきた青い制服の兵士を、足を出して転がす。


 ……ここまで混沌としていようとは。


 派手に転んだ大きな体を飛び越え、再び、逃げ続ける……。





 1830年11月。

 ポーランドの国家議会セイムは、ロシアに対する市民蜂起を宣言した。


 ロシア皇帝ニコライ1世は、「ポーランド人は皇帝の慈悲に従うべきである」との勅命を出したが、受け容れられなかった。


 国家議会セイムは、ポーランドにおけるニコライ1世の廃位を宣言、ロシアとポーランドの同君連盟(同じ君主を掲げること)を、一方的に解消した。


 ポーランド急進派たちは、国民政府を樹立した。

 ワルシャワ市内では、頻繁に、市民の蜂起軍と、ロシア軍との小競り合いが起きていた。





 「危ない!」

誰かが叫んだ。


 そのガタイのデカさを考えれば、驚くべきことだった。巌のようなロシア兵が、いつの間にか、アシュラの眼の前に立ちふさがっていた。青い軍服の巨漢は、銃剣を振り上げ、にやりと笑った。


 ……うわっ、もう、ダメだ。

 ……なんで、こんな雪泥の中で、しかも、自分には全然関係ない、他所の国の騒乱に巻き込まれて、死ぬ羽目になってんだ?

 ……くそっ!


 「フランソワ、ばん……」

アシュラが、この世の最後の思いを叫びかけた時だった。


 巨漢の顔が、歪んだ。

 何かに驚いたような顔になった後、口が半開けになる。たらたらと、赤い血が、その口の端から流れ落ちた。


「ざ、い……」

アシュラの唇から、残りの言葉がこぼれ落ちる。


 最後まで聞かないうちに、巨漢の体は、ずるずると崩れ落ちていった。

 大きな体が倒れ、視界が明るくなった。

 背後から、小柄な人影が現れた。


 ……こんなところで。

 驚いて、彼は叫んだ。


「エオリア!」


 彼女は、短剣を握っていた。その切っ先が、巨漢の背に埋まっている。


「アシュラ!」

びっくりしたように、目を瞠っている。

「なぜ、ここに?」

「それは、こっちのセリフだよ」

「無事?」

「ああ……あの、エオリア?」


エオリアは大男に向かって、かがみ込んでいた。背に埋め込まれた短剣を、力いっぱい引っぱり、抜こうとしている。


「それ、抜かないほうがいい」

「なんで?」

 きょとんとして、エオリアが尋ねる。

「抜いたら、こいつ、死ぬから」


「えっ!」

ぎょっとしたように、両手を、つかから離す。


 はずみで、ロシア兵の体が、うつ伏せに、地面に沈み込んだ。

 低い呻きが聞こえる。


「い、生きてるわ!」

怯えた声が、小さく叫ぶ。


 ためらいがちに、アシュラは申し出た。

「トドメを刺したいのなら、俺がやろうか?」

「え?」

エオリアの顔から、俄に血の気が引いていった。

「いい、いい、いいからっ!」

必死で拒絶する。

「殺さなくて、いいっ!」


 エオリアには、ロシア兵を殺そうという意志はなかったようだ。ただ、アシュラの……アシュラとは知らないまでも市民側の……危機を見て、無我夢中で、攻撃を仕掛けただけのようだった。


「君の剣が、止血の役をしている。ここに転がしておけば、ロシアの救護隊が、回収に来る筈だ」

 なだめるように、アシュラは言った。

 蒼白の顔のまま、エオリアは、頷いた。




「エオリア!」

 そこへ、馬の蹄と、甲高い嘶きが聞こえた。

「ユスティナ!」

エオリアが名を呼んだ。


 驚いたことに、女だった。黒みがかった鹿毛の、立派な軍馬に乗って現れたのは、若い、整った顔の女だった。断髪に、ベレー帽を載せている。


「何をしているの、こんなところで!」


 女は叫んだ。

 アシュラに気がついたようだ。


「それは、誰!?」

「アシュラよ!」


「アシュラ? 誰よ!」

女は舌打ちした。

「ぐずぐずしてられない。いいわ、乗って!」


 馬が、すぐ近くに止められた。

 エオリアが、よじ登る。

 女が、手を貸してやっている。


「乗った? じゃ、行くわよ!」

 エオリアを後ろに載せ、女は、大きく鞭を振り上げた。鞭のしなる音が、鋭くくうを引き裂く。


 「ちょ、ちょっと、待ってくれ!」


 アシュラは叫んだ。

 その彼に泥水を浴びせかけ、馬は、すごい勢いで、走り出した。


「アシュラ!」

馬上で振り返って、エオリアが叫ぶ。

「ついてきて!」


「……え?」


「死にたくなかったら、ついてきなさい!」

手綱を握り、前を向いたまま、女も叫んだ。




 ロシア兵が、遠巻きに、退却を始めた。

 遠くから、大勢の人達が近づいてくる。

 ポーランドの市民たちだ。

「我らは、ロシア皇帝を、駆逐した!」

コンスタンチン公総督は、ロシア兄の国へ帰れ!」

「我々には、ポーランドにふさわしい人物に、王冠を差し出す権利がある!」


 そして、その声は、何の前触れもなく、雪の積もった街に、轟き渡った。


「ナポレオン2世、万歳!」

「ポーランド王、ナポレオン2世!」

「ライヒシュタット公を、われらが王に!」


 人々が叫んでいるのは、ポーランドの言葉だった。

 しかし、アシュラには、よくわかった。フランスで、ずっと、耳にしてきた言葉だからだ。


 ……フランソワの名が呼ばれている。

 ……ロシアの圧政から逃れようとする人々が、フランソワを、王に求めている。


「ライヒシュタット公、万歳!」

「ライヒシュタット公、万歳!」

「ライヒシュタット公、ナポレオン・フランツ・カール・ヨーゼフ!」


 フランソワを呼ぶ声は、尽きることなく、人々の口から湧き上がった。

 雪に埋もれたポーランドの街が、その名で、埋め尽くされていく。

 ……。

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