ポーランド蜂起 2
*
アシュラの眼前に、白刃の切っ先が突きつけられた。
危ういところでそれを避け、大きな樽の後ろに駆け込む。
……しかし、まさか、
追ってきた青い制服の兵士を、足を出して転がす。
……ここまで混沌としていようとは。
派手に転んだ大きな体を飛び越え、再び、逃げ続ける……。
*
1830年11月。
ポーランドの
ロシア皇帝ニコライ1世は、「ポーランド人は皇帝の慈悲に従うべきである」との勅命を出したが、受け容れられなかった。
ポーランド急進派たちは、国民政府を樹立した。
ワルシャワ市内では、頻繁に、市民の蜂起軍と、ロシア軍との小競り合いが起きていた。
*
「危ない!」
誰かが叫んだ。
そのガタイのデカさを考えれば、驚くべきことだった。巌のようなロシア兵が、いつの間にか、アシュラの眼の前に立ちふさがっていた。青い軍服の巨漢は、銃剣を振り上げ、にやりと笑った。
……うわっ、もう、ダメだ。
……なんで、こんな雪泥の中で、しかも、自分には全然関係ない、他所の国の騒乱に巻き込まれて、死ぬ羽目になってんだ?
……くそっ!
「フランソワ、ばん……」
アシュラが、この世の最後の思いを叫びかけた時だった。
巨漢の顔が、歪んだ。
何かに驚いたような顔になった後、口が半開けになる。たらたらと、赤い血が、その口の端から流れ落ちた。
「ざ、い……」
アシュラの唇から、残りの言葉がこぼれ落ちる。
最後まで聞かないうちに、巨漢の体は、ずるずると崩れ落ちていった。
大きな体が倒れ、視界が明るくなった。
背後から、小柄な人影が現れた。
……こんなところで。
驚いて、彼は叫んだ。
「エオリア!」
彼女は、短剣を握っていた。その切っ先が、巨漢の背に埋まっている。
「アシュラ!」
びっくりしたように、目を瞠っている。
「なぜ、ここに?」
「それは、こっちのセリフだよ」
「無事?」
「ああ……あの、エオリア?」
エオリアは大男に向かって、かがみ込んでいた。背に埋め込まれた短剣を、力いっぱい引っぱり、抜こうとしている。
「それ、抜かないほうがいい」
「なんで?」
きょとんとして、エオリアが尋ねる。
「抜いたら、こいつ、死ぬから」
「えっ!」
ぎょっとしたように、両手を、
はずみで、ロシア兵の体が、うつ伏せに、地面に沈み込んだ。
低い呻きが聞こえる。
「い、生きてるわ!」
怯えた声が、小さく叫ぶ。
ためらいがちに、アシュラは申し出た。
「トドメを刺したいのなら、俺がやろうか?」
「え?」
エオリアの顔から、俄に血の気が引いていった。
「いい、いい、いいからっ!」
必死で拒絶する。
「殺さなくて、いいっ!」
エオリアには、ロシア兵を殺そうという意志はなかったようだ。ただ、アシュラの……アシュラとは知らないまでも市民側の……危機を見て、無我夢中で、攻撃を仕掛けただけのようだった。
「君の剣が、止血の役をしている。ここに転がしておけば、ロシアの救護隊が、回収に来る筈だ」
なだめるように、アシュラは言った。
蒼白の顔のまま、エオリアは、頷いた。
「エオリア!」
そこへ、馬の蹄と、甲高い嘶きが聞こえた。
「ユスティナ!」
エオリアが名を呼んだ。
驚いたことに、女だった。黒みがかった鹿毛の、立派な軍馬に乗って現れたのは、若い、整った顔の女だった。断髪に、ベレー帽を載せている。
「何をしているの、こんなところで!」
女は叫んだ。
アシュラに気がついたようだ。
「それは、誰!?」
「アシュラよ!」
「アシュラ? 誰よ!」
女は舌打ちした。
「ぐずぐずしてられない。いいわ、乗って!」
馬が、すぐ近くに止められた。
エオリアが、よじ登る。
女が、手を貸してやっている。
「乗った? じゃ、行くわよ!」
エオリアを後ろに載せ、女は、大きく鞭を振り上げた。鞭のしなる音が、鋭く
「ちょ、ちょっと、待ってくれ!」
アシュラは叫んだ。
その彼に泥水を浴びせかけ、馬は、すごい勢いで、走り出した。
「アシュラ!」
馬上で振り返って、エオリアが叫ぶ。
「ついてきて!」
「……え?」
「死にたくなかったら、ついてきなさい!」
手綱を握り、前を向いたまま、女も叫んだ。
ロシア兵が、遠巻きに、退却を始めた。
遠くから、大勢の人達が近づいてくる。
ポーランドの市民たちだ。
「我らは、ロシア皇帝を、駆逐した!」
「
「我々には、ポーランドにふさわしい人物に、王冠を差し出す権利がある!」
そして、その声は、何の前触れもなく、雪の積もった街に、轟き渡った。
「ナポレオン2世、万歳!」
「ポーランド王、ナポレオン2世!」
「ライヒシュタット公を、われらが王に!」
人々が叫んでいるのは、ポーランドの言葉だった。
しかし、アシュラには、よくわかった。フランスで、ずっと、耳にしてきた言葉だからだ。
……フランソワの名が呼ばれている。
……ロシアの圧政から逃れようとする人々が、フランソワを、王に求めている。
「ライヒシュタット公、万歳!」
「ライヒシュタット公、万歳!」
「ライヒシュタット公、ナポレオン・フランツ・カール・ヨーゼフ!」
フランソワを呼ぶ声は、尽きることなく、人々の口から湧き上がった。
雪に埋もれたポーランドの街が、その名で、埋め尽くされていく。
……。
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