待たないで
アシュラが連れて行かれたのは、蜂起軍の本部だった。
大勢の人が、声高にしゃべりながら、行き来している。ポーランド語なので、アシュラには、殆ど意味がわからない。
アシュラを置いて、エオリアと美女は、どこかへ行ってしまった。
アシュラは、階段の下に蹲った。女性二人は、階段を駆け登っていったが、彼には、そんな気力は残っていなかったのだ。
もう、へとへとだった。美女……ユスティナとか言った……は、馬の速度を加減してくれたらしいが、脚が4本ある生き物にかなうわけがない。
……それにしても、なぜポーランドにエオリアが?
……彼女はいったい、どうしてしまったのか。
思い悩んでいると、階段の上から、足音が聞こえた。軽い音だ。
「アシュラ……」
顔をあげると、階上から、エオリアが下りてきた。
「会えてよかった、アシュラ」
「エオリア。どうしてまた、こんなところに。
気になっていたことを、一気に尋ねる。
エオリアは、アシュラの問いには、答えなかった。顔を顰める。
「臭い」
「あ……」
溶けた雪の泥水と汗とで、服はどろどろだった。加えて、エオリアが刺したロシア兵の血が、あちこちに飛んでいる。
彼女は、清潔な服を一式、持っていた。それをアシュラに渡した。
「父には、黙って出てきたわ。言ったら絶対、止めるもの。だから、駆け落ちしてきたの」
「かっ、駆け落ち!?」
アシュラの手から、洗いたての肌着が落ちた。
エオリアが慌てて拾い上げた。
「ちょっと! 床は泥だらけよ!」
肌着が泥まみれになろうと、アシュラには、どうでもよかった。
「誰と!」
……フランソワか?
……エオリアは、フランソワを連れ出すことに成功したのか!?
……暴動下のポーランドに?
賢明なこととは思えない。
だが、ポーランドが、それを望んだとしたら!?
……フランソワが、この建物の、どこかにいるのか。
……会いたい。
それが期待であることに気づき、アシュラはうろたえた。
あっさりとエオリアは答えた。
「ユスティナ・パディーニと」
「ユスティナ? さっきの女か?」
「そうよ」
アシュラの全身から力が抜けた。
「エオリア。それ、駆け落ちとは言わない」
「あら、そう? 親に黙って家を出るのは、駆け落ちとは言わないの?」
けろりとしてエオリアが尋ねる。
「言わないよ。で、誰なんだ、そのユスティナ……」
「パディーニ。ポーランド貴族の令嬢よ、ああ見えて」
確かに、色白の美女だった。堂々とした物腰にも、威厳があった。
「そのポーランド貴族令嬢が、なんで、君と一緒にいるんだ? しかも、こんな混乱の中に。君は、フランソワの聖母になるんじゃなかったのか」
エオリアが不思議そうな顔をした。
「聖母?」
「だって、君、言ったろう?」
……冬の旅人がいたら、ピエタ像の聖母様のように、ずっと抱いていてあげたい。
……冬が終わるまで。その人が、寂しくなくなるまで。
(※5章「冬の旅」参照下さい)
だから、自分は、身を引いたのに。
彼女が傷つき、自分の腕に帰ってくるまで待とうと思ったのに。
「あなたが何を言いたいのか、よくわからないけど、ローマ王は、あなたにそばにいてもらいたがっているわ。……私じゃなくて」
不意に、エオリアの顔が、苦し気に歪んだ。
「それなのに、ごめんなさい。私があなたより先に、エミールのことを、ローマ王に話しちゃったから。だから、ローマ王は怒って、あなたを左遷したんだわ」
「は?」
「あなた、3年前の夏、フランスへ行った時に、エミールに会ったんでしょ?」
フランスでエミールと会ったことを、アシュラは、ローマ王に報告しなかった。
ローマ王は、その事実を、エオリアの口から知ってしまった。
報告を怠ったことを、ローマ王はひどく怒って……。
「違うよ、エオリア。僕がここに来たのは、公務だ。左遷されたわけじゃないよ」
「公務?」
「ああ。僕はスパイだからね。視察というか……」
……ライヒシュタット公にとって、ふさわしい未来を探しに。
それが、
「第一、
「監視対象? ローマ王が?」
少しの間、エオリアは考え込んだ。やがて、アシュラが言ったことがわかると、彼女は、どん、と、足を踏み鳴らした。
「だったら、早くウィーンへ帰りなさいよ! おかわいそうに、ローマ王が、どれだけあなたの帰りを待ちわびているか……」
「……え?」
「あなた、ずっと彼のそばにいると誓ったんですって? もっともっと働かさなければって、ローマ王、言ってたわよ」
「……」
「アシュラ」
打って変わって穏やかな声で、エオリアは、彼の名を口にした。
「私に遠慮することはないのよ。ローマ王もあなたも誤解しているようだけど、私は、あなたの恋人ではないわ」
「エオリア……」
彼女の宣言は、恐れていたほど、アシュラの心を揺るがすことはなかった。
ただ、静かに降り積もった。
彼の耳の奥に。
心の底に。
「君が好きなのは……」
「ローマ王は、みんなのものよ」
素早く、エオリアが遮った。
「だから、私……私達は、戦う決意をしたの。私と、ユスティナは。彼が治める国を、私達が、用意するのよ!」
思わずアシュラは叫んだ。
「俺も一緒に戦う!」
「だめよ! あなたは、ウィーンに帰る。そして、ローマ王のそばにいるの。彼が、それを望んでいるから」
「本当に?」
アシュラは、自信がなかった。
だって彼は、いつも冷淡で、心を鎖し……。
フランソワは、アシュラのことを、出来損ないのスパイと思っているのではなかったか。
その無能さを利用し、彼は、自由に行動できる。だから、アシュラを身近に置きたいのだ。
アシュラは、フランソワの考えていることが、なにひとつ、わからなかった。ただ、
……ほっとけない。
あまりの孤独な姿に、寄り添いたいと思った。
「ローマ王は、あなたの帰りを待っているわ」
力強く、エオリアは口にした。
「でも……」
不意に、エオリアの声が陰った。
「ノエさんという人が、うちに来たわ」
「ノエ捜査官が?」
アシュラの上司である。
「貴方は本当は、ウィーンに帰ったらダメなの」
「エオリア、それ、どういう……?」
「手紙を預かったわ」
一瞬、エオリアは、顔を歪めた。
「ノエさんも、私はあなたの恋人だと思ってたんですって」
ノエに、エオリアへの気持ちは、話したことはない。
だが、シャラメ書店のことは、しばしば、ノエに報告していた。フランソワがよく行く書店だからだ。その過程で……エオリアの名は出たかもしれない。
フランソワがよく行く書店主の娘。
かわいい女の子……。
ノエは、フランソワとエオリアの仲は疑わなかった。
有能な探偵である彼が嗅ぎ分けたのは、アシュラの、エオリアへの恋心だった。
「その手紙は、今どこに?」
「ウィーンを出る前に、父に渡した。その手紙に、詳しいことが書いてある筈よ」
ノエはしきりと、アシュラにとって、ウィーンは危険だと口にしていたという。
「危険に晒されているのは、あなただけじゃない。だからノエさんは、秘密警察を退職したんですって」
「なんだって!」
まさかと、アシュラは思った。
あの有能な捜査官が、退職……。
「それで、彼は、今、どこに?」
「知らないわ。とにかくウィーンにいたら、命の保証はできないって」
「……」
どういうことなのか、アシュラにはわからなかった。
彼はノエに命じられて、オーストリアを出た。
フランソワの新たな可能性を探りに。
……まさか。
……それを不快に思う者がいる?
今まで、彼が警戒していたのは、ブルボン家の陰謀だった。3年前、ヴァーラインの前任の料理人が仕掛けた毒は、間違いなく、ブルボン家から出たものだ。だからこそ、ナポレオンの遺した丸薬が効果を発揮した……。
(※3章「ブルボン家の白い百合」ご参照下さい)
心配そうな声が、名を呼んだ。
「アシュラ?」
ぱっとアシュラは顔を上げた。
エオリアが、彼を見つめている。
大好きだった人に向けて、アシュラは、せいいっぱい微笑んだ。
「僕なら大丈夫だ。帰るよ、ウィーンへ。彼の元へ」
エオリアが、泣き笑いの表情を浮かべた。
「私達、離れてしまうけど、ローマ王という、共通の目的を持つのね」
「……」
アシュラの胸は、いっぱいになった。言葉も出ない彼に変わって、エオリアが続ける。
「いつかポーランドへ彼が来てくれる日のために。その日のために、私達は、頑張る」
そんな日が、来るのだろうか。
アシュラには、確信が持てない。
ただ……。
「ダメになったら、いつでも帰っておいで」
エオリアは、小首を傾げた。不安そうに問う。
「あなた、待ってないわよね?」
「もちろん。待ってないよ」
安心したように、エオリアは笑った。きれいな、いい笑顔だと、アシュラは思った。
エオリアは、何か、思い出したようだ。
「ああ、そうだ。言っておかなくちゃ。共通の知人の話だから。ローマ王は、ヴァーラインをクビにしたそうよ」
「えっ!」
冷たい手で、心臓を掴まれたような気がした。
……ノエもいない。食の安全を任せたヴァーラインも。
……それなら、今、誰が、彼の身の安全に気を配っているんだ?
エオリアが何か言っている。
「あ、クビとは違うかしら。とにかくヴァーラインは、
「……」
アシュラが絶句していると、ブーツの音が、階段を下りてきた。
「ここにいた。エオリア。出発するわよ」
ユスティナ・パディーニ……軍馬に乗っていたポーランド貴族令嬢……が、現れた。
ぱっと、エオリアが立ち上がった。
「ごめんね、アシュラ。もう、行かなくちゃ」
「どこへ行くんだ? エオリア……」
「リトアニア(ポーランドの北東。当時、ポーランドとともに、ロシアに割譲されていた)」
答えたのは、ユスティナだった。
「私達はリトアニアに戦線を張り、ロシア兵を食い止める。先に行って、ポーランド主力軍の到着を待ち、ロシア兵を、北の大地へ撃退する」
「ちょっと待て」
アシュラは慌てた。
彼女たちが、そんなに本格的に戦うとは、思っていなかった。
「だったら、俺も行く」
前言をあっさり撤回し、彼は叫んだ。
本格的な戦闘経験はない。だが、エオリアの盾になるくらいはできるのではないか……。
「わからない人ね」
駄々っ子を見る目で、エオリアがアシュラを睨んだ。
「あなたの守るべきは、ローマ王。あなたは、ローマ王のいる所にいなければいけないの。彼はあなたに、そばにいてほしいの」
「ローマ王を頼んだわ」
全てにけりをつけるように、ユスティナが言い放った。
「さあ、エオリア。暗いうちに発たなければ」
エオリアが、アシュラに向き直った。優しい声で言う。
「さようなら、アシュラ。あなたに、神のご加護があるように」
「エオリア……君にも」
無神論者だけど、アシュラも祈った。
心から。
※
以下、蛇足です。ユスティナ・パディーニについて、興味をお持ちの方へ……。
エオリアと同じく、ユスティナ・パディーニも、想像上の人物です。ですが、ユスティナには、2人のモデルがいます。
1人は、ポーランド貴族の令嬢、エミリア・プラテルです。
彼女は、1830年のポーランド蜂起で、大鎌を持った数百人の農民を率いて、ロシア軍に対するゲリラ活動を展開しました。
また、「彼は諦めなさい」に掲載した手紙は、実際に、ライヒシュタット公に宛てられた手紙を訳してみました。当時ウィーンにいた、ポーランドの令嬢が書いたものです。残念ながら、彼女の名前は伝わっていません。いささか硬すぎる内容ですが、資料によっては、立派に、恋文認定されています(……彼には、どんだけ浮いた噂が少ないんでしょう……)。
この手紙は、もちろん、ディートリヒシュタイン伯爵によって没収され、ライヒシュタット公は、その存在すら、知りませんでした。
ユスティナ・パディーニは、この二人の令嬢達をモデルに、イメージしてみました。
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