ナポレオンのもうひとりの息子 1
こうしては、いられない。
アシュラは思った。
今、フランソワは、まるで無防備だ。ディートリヒシュタイン伯爵や、皇室警備がついているが、彼らの警護には、限界がある。
荷物は、殆ど無い。
通行証と路銀の残りは、衣服に縫い込んであった。
エオリアがくれた服に着替え、脱ぎ捨てた服の袖と裾の縫い目を切り裂く。目当てのものを取り出すと、新しい服の中に、素早くしまいこんだ。
これで、準備は完了だ。
あとは、厨房から当座のパンを失敬して……。
「何をしてるんだ?」
棚を漁っていたアシュラは、背後から声をかけられ、ぎょっとした。
「頭の黒いネズミが、食料を漁るとは。軍法会議ものだぞ」
パンを手にしたまま、アシュラは、ゆっくりと振り返った。
暗がりの中のその、人影は……。
「プリンス!」
思わず叫んだ。声が震えた。
「やっぱりいらしてたんですね!」
「君が誰と間違えているのか知らないが、少なくとも、僕は、プリンスではない」
冷ややかな声が、否定した。
同時に、燭台の明かりが、その顔を真正面から照らし出した。
別人だった。
茶色の髪に、かぎ鼻、年齢の出やすい薄い唇……。
その青年は、大きく襟ぐりの開いた服を着ていた。赤い上着の毛皮の縁取りの上に、白いレースのシャツの襟が、大きく開いている。
フランソワなら、首元を、禁欲的なまでにきっちりと締め上げている筈だ……。
青年は、薄い唇を歪めた。
「ほら。そんなふうに、パンを握りしめて。黒い頭のネズミ君は、晩飯が足りなかったのかな?」
「俺は、ネズミではない」
かろうじて、アシュラは答えた。
フランソワと似てると思ったのは、右から見た横顔だけだ。それも、上頬から目の形、そして、額にかけての部分だけ。第一、瞳の色が、まるで違う。
それに、フランソワは、こんな言い方はしない。もっと直接的に、はっきりと言う。
……パンを盗んだら、ダメじゃないか。
そして、恥ずかしそうに、ぽっと頬を赤らめる……。
再び、青年は、唇を歪めた。
どうやらそれが、彼にとっての微笑みらしいと、アシュラはようやく気がついた。
「わかっている。アシュラ・シャイタン。ネズミではない。イヌだ。オーストリアのイヌだな」
なぜ、自分の名を知っているのか。オーストリアのイヌ……スパイであることも。
「イヌでもない!」
とりあえず、アシュラは否定した。
「ないないづくしじゃないか」
青年は、声を出して笑った。
「ずいぶんゆっくりなご到着だったな。君のことは、パリの従兄から、手紙で知らせが来た。従兄……シャルル・ルイからね」
「すると、あんたは……!」
「ああ。俺が、君の尋ね人だよ。アレクサンドル・ワレフスキ。ナポレオンの、もうひとりの息子だ」
「……あんたが!」
反射的に耳を見ようとした。
だが、残念ながら、彼の耳は、茶色の毛糸の耳覆いで覆われていて、窺い知ることはできなかった。
「俺に何の用だ、アシュラ・シャイタン」
鋭い眼光が、射すくめた。
「会ってみたかったんだ。あんたに。彼の、血を分けた異母兄に」
アシュラが言うと、アレクサンドルは、疑わし気な顔をした。
「それだけのために、暴動下のポーランドまで、わざわざ来たというのか?」
「そうだ」
「ローマ王の命令か?」
「まさか。違う」
「信じられないな」
アレクサンドルは、じろじろと、アシュラを見回した。
「それで、お前は例の、ナポレオン2世、万歳、に、参加してきたわけだな?」
「最初に言っておくが、うちの殿下……あんたの弟……は、真に、王者の器だ」
「ほう」
「父を尊敬し、彼に近付こうと努力を重ねている」
初めて、アレクサンドルの表情が変わった。
「確かだろうな。彼は、父を尊敬しているのだな?」
「度を越している。ナポレオンの本を読み漁り、ナポレオンの戦術に精通している」
初めは、教師に隠れて本を読み漁り、今では、一人でウィーンの町の書店に出入りしている、と、アシュラは語った。
「そうか……」
アレクサンドルの目に、温かい色が浮かんだ。
「彼も、父を崇め、敬愛しているのか……」
「あんたもか?」
……ナポレオンを信奉するなんて。
アシュラの顔に、猜疑が浮かんだ。
「あんたら兄弟は、どうかしてるんじゃないのか?」
「お前、」
アレクサンドルの体に、殺気が漲った。
「そんなことを言って、ただで済むと思うなよ……」
「だってナポレオンは、人喰い鬼じゃないか!」
ナポレオンは、過酷な徴兵制度を国民に課した。フランス国民の壮健な男子、農村の貴重な働き手でもある彼らは、その大部分が、故郷に帰らなかった。彼らは、雪のロシアで、あるいは、スペインのゲリラで、また、ライン川のほとりで、死んだ。
深いため息を、アレクサンドルはついた。
「人喰い鬼か。ああ、そうだよ。そのナポレオンの息子だ。俺たちには、父を崇めるしかないんだよ。……それか、徹底的に憎むか」
「……」
アシュラは己の父親のことを考えた。
フランス兵だった父は、母を連れ出し、それを恨んで、養父は死んだ。
アシュラは、実の父を憎むことで、かろうじて、今日まで生きてこれた気がする。実の父への憎しみが、辛い出来事を乗り来る原料力になっていたように思うのだ。
「なぜ、憎まないんだ?」
その方が、楽に思われた。
細いため息が聞こえた。
「一緒に暮らしてたら、あるいは、父を憎んだかもしれない。だが、俺は……ローマ王も……、父と過ごす時間が、あまりにも少なかった」
「少しだけ一緒にいて、すぐに離れ離れにされたことが、父親への思慕に繋がったというのか?」
「そんな簡単なことじゃない」
アレクサンドルは、きっぱりと言い放った。
「それに俺は、そこまで、父のいいなりになるつもりはない。父は俺に、フランスの軍隊に入ることを望んだ。レオンには、法律家になってもらいたかったようだ。……彼は、ミュラの子であるかもしれないが」
アシュラは、パリで会ったレオンを思い出した。
「レオンが、法律家?」
思わず、アシュラは吹き出した。
始終金に困っているレオンに、法律家が務まるとは思えない。
アレクサンドルも苦笑した。
「ああ。ありえないことだ。だが、レオンだけではない。俺の得意分野も、軍務ではない。外交だ」
「それなのに、フランス軍に入るのか? 父親の遺志だから?」
「形だけは」
アレクサンドルは、にやりと笑った。
「つまり、結局は、俺もレオンも、ナポレオンの思う通りの道は、進まないよ。俺らは、そこまで、父に忠実ではないのだ」
アシュラは、心の底からむっとした。
なぜ、こいつらは……アレクサンドルもレオンも……、こんなに自由なのだろう?
ウィーンで、フランソワは、あんなに悩んでいるというのに。
「フランソワは、ライヒシュタット公は、父と同じ道を歩もうとしている。軍務の道を」
「父が彼に望んだのは、フランスのプリンスたれ、ということだ」
「だって、ナポレオンの帝国は滅びたじゃないか! 7月の革命で、フランスの民は、ナポレオン2世のことを思い出さなかった」
革命の行軍で、市民たちがコールしたのは、その殆どが、ブルボン打倒だった。
そして、フランソワの名が出る前に、フランスの新王は、ルイ・フィリップに決まった。
アレクサンドルは、きっとアシュラに目を据えた。
「なら、聞くが、アシュラ。ローマ王はなぜ、この期に及んで、ポーランドに来ないのだ? もうだいぶ前から、この国は、彼を呼んでいるというのに」
ポーランドの民族衣装を着たフランソワの肖像画がばらまかれたのは、2年も前のことだ。その肖像画には、「ナポレオン2世、ポーランド王!」と記載されていた。
「知らされていなかったからだ。彼には何も、知らされない」
「その話は聞いたことがある。彼は、ウィーンの帳に覆われ、外部と遮断されていると。だが、その彼に、世界を知らせるのが、君の役割じゃないのか?」
「俺は、彼の思想信条を探るスパイだ」
アレクサンドルは、薄く微笑んだ。
「寝返ったスパイだ」
覚えず、アシュラは唇を噛み締めた。
「俺は、一度も、『ナポレオン2世』とコールしたことはない。彼を、ナポレオンの名で呼ぶことには、反対だ」
「祖父の名で呼ぶのは良いのか? ……フランツと」
「フランソワだ」
強くアシュラは言った。
「彼にその名を与えたのは、彼の父だ」
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