これは革命だ 2
……ふふふ。あの時の、あの女の顔ったら。
ハンガリーの名門、エステルハージ家。伯爵夫人、ファニーは、一人、笑みをこぼした。
昨夜。宮廷で、メッテルニヒ夫人メラニーを見かけた。ファニーは、ためらわずに話しかけた。
「メッテルニヒ夫人。ご主人のご決意は、定まりまして?」
「何のお話かしら」
メッテルニヒ夫人、夫より31歳年下の、勝ち気なメラニーは、眉を顰めた。
無邪気な笑みを、ファニーは、浮かべてみせた。
「私も、蝋燭を買わなくちゃと思って」
「蝋燭?」
「だって、あなたのご主人は、退任なさるんでしょう? 早く蝋燭を買わないと、売り切れちゃいますもの」
蝋燭……お祝いの蝋燭行列に使うものだ。
最後の威厳をかき集め、彼女は、くるりと後ろを向いた。ドレスの裾を蹴るようにして、歩み去っていく。テーブルの角を曲がろうとして、思い切り、足をぶつけた。
ファニーは、笑いをこらえるのに、苦労した。
……だって、メッテルニヒは、言った。
……「ライヒシュタット公は、ヨーロッパの、全ての王座から閉め出されている」。
そして、彼は、ファニーの息子、モーリツを、遠いナポリへ左遷した。
ライヒシュタット公に死が迫った頃。イタリアにいる息子に、短い手紙を書いた日のことを、ファニーは、よく覚えている。
「モーリツは帰ってくる」
ここのところ、ずっと苛々としてた
「間違いない。あいつは、今しも、ウィーンへ向かう支度をしている」
「私たちの息子の訪れが、せめて、あの方への励ましになれば……、」
言いかけたファニーを、夫が、乱暴に遮った。
「モーリツは、馬鹿だから、あの方の、最期の思いを受け止めようとするだろう」
「だって、あの子は、彼に、永遠の忠誠と、友情を誓っていますから」
「それがいかんというのだ。いいか、ファニー。あの方の最期の思い……それは、具体的な計画だ。それを、モーリツが知ったら、馬鹿なあいつは、生涯をかけて、それを実行しようとするに違いない」
「馬鹿馬鹿、言わないで下さい。あなたの息子でしょう?」
むっとして、ファニーは言い返した。
「それに、友情とは、そういうものです」
背の高い夫は、ファニーを見下ろした。しゃくに触り、さらに言い返そうとした彼女は、夫の目の中に、深い悲しみがにじんでいることに気がつき、思わず、息を呑んだ。
「モーリツが、あの方の遺志を実行したなら……」
低い声だった。夫の声には、間違いなく、怯えがにじんでいた。
「破滅は、あいつ一人に留まらない。御従弟様のフランツ・ヨーゼフ大公殿下(F・カールとゾフィーの長男)を巻き込み、さらに、未来のオーストリアそのものにも及ぶだろう」
「破滅……」
ファニーは唖然とした。夫が頷く。
「今、死の床で、あの方が抱えている思いというのは、そういう性質のものだ」
くるりと背を向け、エステルハージ伯爵は、テーブルに向かった。
従者に渡す直前に、ファニーも、ライヒシュタット公の現状を書き添えた。
……。
死に臨んで、ライヒシュタット公が何を考えていたのか、ファニーにはわからない。夫も、全部を理解していたわけではなかろう。ただ、夫の怯えは、本物だった。
それが、ファニーの目には、奇妙に映った。あのように美しく優しい青年が、いったい何を企むというのか。
まして、国家転覆に関わるようなことなど!
いずれにしろ、あの時点で、モーリツが急ぎウィーンに帰ってきたとしても、彼に会うことは叶わなかっただろう。ライヒシュタット公は、親族と付き人以外、誰に会うこともなく、シェーンブルンの宮殿で亡くなった。
だから、モーリツの心の中の彼の像は、病み衰えた姿ではない。
ファニーも、ディートリヒシュタイン伯爵と同じ考えだった。元気だったころの彼の姿を覚えていることが、彼の為にもなると、彼女は考えている。
モーリツの中の記憶は、彼の死の苦しみに、かき乱されることはなかった。
ライヒシュタット公を。
普通の青年だった、彼を。
……そりゃ、モーリツは、遊び人の不良よ? 夫の言うように、馬鹿息子かもしれない。
……でも、ライヒシュタット公は、
モーリツだけではない。
無二の親友であったプロケシュ少佐も、幼い頃から一緒だったグスタフ・ナイペルクさえもが、イタリアへ追いやられた。
ライヒシュタット公は、ひとりぼっちになり、そして……。
……蝋燭は買った。
……だって、みんなで蝋燭行列をするんだもの。宰相は、退陣するわ。なんて、喜ばしいことでしょう!
今日、ようやくファニーは、メッテルニヒに一矢報いることができたと思った。
正確には、メッテルニヒの
……ゾフィー大公妃も、さぞや満足しておられることでしょう。
今夜は久しぶりに、ワインを開けよう。
ファニーは思った。
*
かつて、ゾフィー大公妃は、ライヒシュタット公と、とても親密だった。彼女の次男、マクシミリアン大公は、彼の子だ、という噂もある。
彼女は、噂を否定しなかった。
夫のF・カール大公も、また。
*
「メッテルニヒは退陣しろ!」
「独裁者から皇帝を解放せよ」
「皇帝を我々に返せ!」
民衆の不満は、決して、皇室に向くことはなかった。
代わりに、メッテルニヒの罷免を要求する声は、日増しに大きくなっていった。
宮殿の窓辺に立っていたゾフィー大公妃の口元に、笑みが浮かんだ。
……フランツル。見ていて?
ゾフィーは、決して忘れることはなかった。
若くして、無念のうちに死んでいった甥を。
最後まで礼儀正しく、彼女に忠実だった、背の高い、金髪碧眼の青年を。
彼に死が迫っていた頃、彼女は、あまりに若かった。
彼女の目には、メッテルニヒは、頼もしい宰相としか映らなかった。
……けれど。
メッテルニヒは、彼が秘跡の儀を受けたその晩、在パリの
その事実を知った時、ゾフィーの中で、何かが壊れた。
秘跡の儀。
ハプスブルク家の一員が、死に瀕した時、必ず受けなければならない、宗教上の儀式。
言い換えれば、秘跡を授けるということは、お前はもう死ぬのだと、宣告するようなものだ。
そして、秘跡の儀を受けるよう、フランツルに勧めたのは、ゾフィー自身だ。
もちろん、秘跡という言葉は使わなかった。間近に迫った自分のお産の無事を祈るついでに、彼の回復を祈る。
通常の聖餐だと、説明した。
だが。
……「死ぬ準備はできている」
秘跡を受ける朝、彼は、そうつぶやいたという。また告解の後、司祭に向けて、
……「病が重いことは、知っています。しかし、良くなる望みを捨ててはいません」
と、語ったそうだ。
彼は、知っていたのだ。
これが、秘跡の儀であることも。
自分は間もなく、死ぬということも。
ハプスブルクの人々が、総出で、彼の意識を、死に向き直らせたのだ。
彼は、最後まで、生きようとしたのに……。
そして、ハプスブルク家の先頭に立ち、彼に、聖餐を受けるよう勧めたのは、ゾフィー自身だ。
……。
長いこと、慚愧の思いに、ゾフィーは、身も世もあらぬ思いが続いた。
最後に見舞ってから(それは、彼女のお産の前日だった)、その死までの16日間、彼の元を訪れることがなかったことも、臓腑が捩れるような、いたたまれなさに拍車を掛けた。
……私はあの子に、なんて残酷なことを。
……フランツルは、いつだって、私の味方でいてくれたのに。
シェーンブルンに移り、容態は安定したと聞いていた。
大きな発作はあったが、危機は脱したと、医師団は宣言している。秘跡の前に行われた最後の医療会議では、秋になってからの転地を進言しようと、話し合われてさえいた。
……彼に秘跡を受けさせたのは、誰の意思だったのか。
秘跡を受けた後、容態は、格段に悪化したと、ゾフィーは、付き人から聞かされた。迫りくる死を自覚したからだ。
……あの時点で、秘跡を受けさせる必要があったのか。もっと後でも良かったのではないか。
……せめて、お母様のマリー・ルイーゼ様が、お帰りになってからでも。
……そもそも、メッテルニヒが、もっと早くに、転地を許しさえすれば。
そうすれば、彼はまだ、自分の隣にいたはずだ。あの頃と同じく、自分の横に座り、はにかんだような微笑みを浮かべて……。
ゾフィーの心の中で、彼は、いつまでも、あの頃のままだ。
人混みの中で、エスコートしてくれた、優しいしぐさ。
大隊を堂々と指揮し、ゾフィーのいるベランダの下を、彼女の方を一顧だにせず、通り過ぎていった子どもっぽさ……。
おとなになりきった彼を、ゾフィーは、想像できない。彼は、彼女から、永遠に奪われてしまったからだ。
宰相が、ウィーンから出ることを許したのは(フランス以外という条件がついたが)、彼の死の、40日ほど、前のことだ。
ちょうど、フランスで起きた6月暴動が、鎮圧された頃。
……宰相は、フランスしか見ていない。
……
ウィーンから、決して外に出さず、希望の軍務もお飾りのように扱い、それなのに、彼は、身体を酷使し、過酷な訓練に打ち込んで……。
あれほどの絶望を。
想像を絶する苦しみを。
許せない、と思った。
彼女は、じっとチャンスを窺っていた。
2月22日に、パリで、2月革命が起きた。知らせを聞いたその日から、ゾフィーは、周到な準備を重ねた。
劇場では、メッテルニヒを風刺した喜劇が上演され、好評を博した。これを、検閲する者はいなかった。検閲当局が、見逃したからだ。
街には、メッテルニヒが、皇帝を支配している、という噂が、流された。今の不景気は、メッテルニヒが皇帝を牛耳っているせいだ。
それらの陰に、ゾフィー大公妃がいた……。
「さあ、あなた。行きましょう」
ゾフィーは、夫のF・カール大公の腕を取った。
宮殿の外へ出ていく。
市民の間に、歓呼の声が沸き起こった。
今年、8月。夫妻の長男、フランツ・ヨーゼフは、18歳の誕生日を迎える。
皇帝即位が許される年齢だ。
*
メッテルニヒのウィーン体制は、完全に朽ち果てていた。
プロレタリアートの不満は募り、暴動は、激しくなる一方だった。
それに呼応するように、メッテルニヒ解任を叫ぶ声も、大きくなっていった。
宮廷は、国民へ譲歩を示す必要があった。
おとなしいと言われていた
「私は、流血の原因になりたくない。また、政府を困らせるつもりもない。よろしい。辞任を受け容れましょう」
メッテルニヒは言った。
さらに続けた。
「これで、私の、フェルディナント皇帝守護の誓約は、無効となります。これは、
辞任を受け容れ、宮廷から自宅へ退こうとした時。メッテルニヒの馬車と知り、叫んだ者があった。
「この、ライヒシュタット公殺し!」
翌日。メッテルニヒ一家は、ボヘミア、そしてロンドンへ向けて、亡命した。
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