馬鹿なのかしら

 ランブイエに、モンテスキュー伯爵夫人の息子、アナトール大佐がやってきた。彼はナポレオンが服毒自殺をする前に、出発している。幸か不幸か、皇帝の自殺未遂を皇妃に伝えられる機会は失われた。


 「あなたは、彼と一緒に、お行きになるの?」

エルバ島、と言えず、マリー・ルイーゼは尋ねた。

「もちろん! 道は開けているんです。行かない、なんて、ありえませんよ!」

元気いっぱい、アナトール大佐は答えた。


 この、苦労知らずの明るさは、一体どこから来るのだろう、と、思わずマリー・ルイーゼは考えた。

 少なくとも、母親に似たのではない。

 ため息をついて、マリー・ルイーゼはつぶやいた。


「私も行けたら、どんなにいいか……」

「今、皇帝の元へ行かれないのなら、この先、もっと行けなくなりますよ? 皇妃様が、オーストリアの捕虜になってしまわれたら」


 そして、彼のこの、人を傷つける鈍さは、間違いなく、母親似だ!


「私は、オーストリアの皇女です! 捕虜になど、なりません!」

きっとして、マリー・ルイーゼは答えた。

「ですが、オーストリア皇帝の権威に従う義務があります。今は、夫に会いにはいけません。ですが、そのうちに……」

声がしぼんだ。


 アナトールは悲しげに頭を振って、退出していった。




 「ワンダフル・アナトール!」

プリンスの部屋に行くと、かつてのローマ王は、甲高い声で叫んだ。ワンダフル・アナトールというのは、軍での彼の呼び名だ。

「パパは、どうしてる?」

プリンスは、アナトールに飛びついた。

「ねえ、ムッシュ・アナトール。助けてよ。僕は、槍騎兵の制服を着せてもらえないんだ。手榴弾兵のも、騎馬兵のも……」

声がだんだん、小さくなる。

「僕が今着ているのは、まるで、敵の制服みたいだ!」

アナトールの腕にしがみつき、彼は、声を上げて泣き出した。




 「エルバ島に行くのね」

モンテスキュー伯爵夫人は、静かに言った。尋ねているのではなく、確認しているのだ。

 アナトールは頷いた。

「アルフレッドも?」

母は、弟の名を口にした。今回も、アナトールは頷いた。

「全く、あなた達兄弟は……」

母は、深い深いため息を付いた。


「僕達兄弟が、何なのさ」

「いいえ。いいの。気をつけなさいよ、アナトール。アルフレッドにも伝えて」

「母さんこそ。プリンスについて、ウィーンに行くんだろ? 皇妃は否定されたが、彼女もプリンスも、敵国、オーストリアの捕虜になりに行くんだ。僕は、母さんのほうが、心配だよ」


 母の頬に、涙が伝った。

 彼女は、息子を抱きしめた。




 この日、妻子に会うことが叶わぬまま、ナポレオンは、エルバ島に向けて出立した。




 3日後、マリー・ルイーゼの一行は、ウィーンに向けて旅立った。モンテスキュー伯爵夫人、モンテベッロ公爵夫人、医師のコルヴィサール、秘書のメヌヴィルも一緒だった。他に、プリンス付きの子守や女官、侍従、コックなど、総勢22名だった。





 最初の晩は、ベルティエ元帥の城に宿泊した。ナポレオンとの結婚の際、特命大使として派遣されてきた彼とマリー・ルイーゼは、親しく行き来していた。ベルティエは、陽気で情に厚い男だった。しかし、ロシア遠征から帰ってきた彼は、別人のように陰気になっていた。


 フランスを去る前に、マリー・ルイーゼは、彼とゆっくり話をしたかった。だがベルテェエ元帥は、先約があるとのことで、すぐに、出かけてしまった。



 「聞いた? 彼、ルイ18世に仕えることが内定したそうよ。今夜も、アルトワ伯(ルイ18世の弟。後のシャルル10世)に会うんですって」

従者控室に戻ってきたモンテベッロ公爵夫人が、コルヴィサール医師に囁いた。


「なんと! ナポレオンの腹心が、ブルボン王家に靡くというのか!」

驚いて、コルヴィサールは叫んだ。

「我々も、こうしてはおれないな!」


「あら、皇帝を裏切るの?」

「裏切る? 自衛だよ。あの方はもう、フランス皇帝じゃない。エルバ島という離れ小島の一領主に過ぎない」

コルヴィサールは吐き捨てた。

「ルイーゼ様にしたって、パルマ? そこしか貰えなかった。大フランスの王妃だった人が!」


「パルマって、どこ?」

虚ろな目をして、モンテベッロ公爵夫人は尋ねた。


「イタリアだよ」

「イタリア……、ダメだわ。私、イタリア語なんて、しゃべれない」

「君は、ドイツ語も怪しいんだろ? 言葉もわからず、フランス人の召使は、引きこもって暮らすんだろうよ。ウィーンでも。パルマでも」

「……」


「ウィーンに着いたら、俺は、パリへ帰る。ルイーゼ様に付き合う義理はないからな」

モンテベッロ公爵夫人は息を飲み、叫んだ。

「私も、一緒に帰る!」


「あんなに仲良しなのに? 君がパリに帰っちまったら、ルイーゼ様が寂しがるんじゃないか?」

「私じゃなくてもいいのよ」

勢い込んで、モンテベッロ公爵夫人は言った。

「いいえ。むしろ、私がいない方が好都合なの。あの方はね。常に男の人に寄りかかっていないと生きられない人なの」


「え? だってルイーゼ様は、皇帝を裏切ったことはないじゃないか」

「それは私がそばにいたから」


モンテベッロ公爵夫人は、暗い目をして言い募った。

「そして、女の私が、彼女に取り入ることができたのは、皇帝を裏切るわけにはいかなかったから。だって、殺されてしまうかもしれないでしょ。皇妃様は、心のどこかで、皇帝を恐れ、疑っていらしたのよ。でも、これから先は、違う。皇帝は、力を失われた。ウィーンに帰ったら、パルマで自由になったら、皇妃様は、きっと……」


「君は、お払い箱か。新しく、男ができて」


「そうよ」

きっとして、モンテベッロ公爵夫人は、コルヴィサールを見た。

「だから、あなたと一緒に、パリへ帰る」



 「……モンテスキュー伯爵夫人はどうするつもりだろう」

少し考え、コルヴィサールは言った。

 はっと、モンテベッロ公爵夫人は顔を上げた。


 モンテスキュー家は、フランスでも1~2を争う古い家柄だ。復古したブルボン朝に取り立てられることは、目に見えていた。


「息子は二人とも、皇帝について、エルバ島へ渡ってしまったな」

ぽつんと、コルヴィサールはつぶやいた。

「そして、母親は、没落した皇帝の子どもを抱いて、ウィーンへ向かっている」


 「……馬鹿なのかしら」

 思わず、モンテベッロ公爵夫人はつぶやいた。パリへ帰れば、尊敬と、優雅な暮らしが待っているというのに。


 コルヴィサールは、首を振った。

「彼女こそ、本当の貴族というものなのかもしれない」

「やめてよ」

モンテベッロ公爵夫人は遮った。

 彼女は、モンテスキュー伯爵夫人のことを話すのが、とてもとても辛かった。





 「いつになったらパパに会えるの? どんなに馬車が走っても、少しもパパに近づいてないじゃないか!」

パルマ小公子フランソワは、不平を言い続けていた。


 彼を宥めるのは、ママ・キューこと、モンテスキュー伯爵夫人の役割だった。母親のマリー・ルイーゼは、別の馬車に乗っている。


 フランソワは、ママ・キューから、決して目を離さなかった。養育係が目を離さなかったのではなく、子どものほうが、常に彼女を視野に入れていたのだ。

 パリを出てから、たくさんの人が、離れていった。フランソワは、ママ・キューと別れたくなかった。



 「降りてごらん。素晴らしい景色よ!」

停車場所に着くと、マリー・ルイーゼが、息子の馬車までやってきた。晴れ晴れとした顔色をしている。彼女は、モンテベッロ公爵夫人と同乗しており、休憩地に着くまで、息子の顔を見ることはない。


 確かに、素晴らしい景色だった。白い雪を頂いたアルプスの山々が、峻厳に聳え立っている。空気は澄み渡り、小鳥の囀りが聞こえた。

 久しぶりに母に声を掛けられて、フランソワは嬉しそうに笑った。生まれて初めて見る高い山々に、歓声を上げた。


 だがその顔色は、はっとするほど悪かった。


 「ここ何日か、冷たい肉ばかりお召しになっていたせいでしょう」

すかさずコルヴィサール医師が診断を下した。

「今夜は、温かいスープをお出しするよう、申し付けましょう」


安心したように、マリー・ルイーゼは、息子を残し、自分の馬車に帰っていった。




 スイスでも、そして、ナポレオンに徹底的に反抗したチロルでも、マリー・ルイーゼの一行は、温かく迎え入れられた。人々は、「我らが佳き皇帝の娘」を歓迎した。ナポレオンの妻子ではなく、オーストリア皇帝の娘と孫の帰国を、喜んだのだ。


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