ちっちゃなナポレオン

 ナポレオンもまた、旅を続けていた。


 フォンテーヌブローの涙の出発の後、暫くの間は、至る所で、歓呼の声が上がった。

 だが、王党派の多い南フランスに差し掛かると、身の危険を感じるほどに、人々は、攻撃的だった。馬車に石を投げつけられたり、時には、変装しなければならないほど、危険が身に迫ったこともあった。


 ようやくジェノヴァ近くの港についた。そこからエルバ島まで、英国のフリゲート艦で5日かかった。





 ランブイエを出発して、約1ヶ月。マリー・ルイーゼ一行の馬車は、ウィーンに差し掛かった。


 宮殿に到着する前に、馬車の前に、転がるように飛び出てきた人影があった。

 フランツ帝の妃、マリア・ルドヴィカだ。

 ドレスデンの諸王の集いの時、ナポレオンは、たとえ義母であっても、妻が迎えに出ることを許さなかった。ルドヴィカは、何のためらいもなく、継子を出迎え、抱き締めた。




 「フランソワは、ルイーゼそっくりだ」

集まった叔父や叔母、弟妹たちは、断言した。


 宮廷の人々が反感を持ったのは、むしろ、マリー・ルイーゼの態度だった。

 彼女は、ブレスレットにナポレオンのミニチュア画を入れ、ことあるごとに、人々に見せていた。部屋には、大きな肖像画も吊るされている。

 また、連れてきたフランス人従者の間で、未だに、フランス皇妃として振る舞っているのも、気になった。マリー・ルイーゼが起居するシェーンブルン宮殿の西棟は、まるで、フランスの植民地のようだった。



 マリー・ルイーゼの帰還は、ウィーンの庶民達にも歓迎された。

 彼女が姿を現すと、人々は手を振り、熱狂的に出迎えた。その様子は、まるで、ミノタウロスの抱擁から無事生還した乙女を迎えるようだった。

 しかし、彼らが本当に見たかったのは、ルイーゼではなかった。

 柔らかい金髪、大きな青い目、きっとあるはずの、その気品。

 あの「大ナポレオン」の息子、パルマ小公子フランソワを、ウィーンっ子達は見たがっていた。





 シェーンブルン宮殿の庭園は、日曜日に一般開放されていた。人々は、ナポレオンの息子を見に、押しかけた。

 フランソワは、白い羽飾りのついた、陸軍元帥の帽子を被っていた。子どもの頭には、ひどく馬鹿馬鹿しいシロモノだったけれども、それでも、訪れた人々は、大喜びした。

「ちっちゃなナポレオン!」

という歓声が、湧き上がった。

 調子に乗ったフランソワが、軍人気取りで、銃を撃つ真似をした。すると、見物客の中には、胸を抑えて倒れるてみせる者もいた。



 「まあ、かわいい」

英国のレディが、いきなり、フランソワにキスをしようとしたのを、お付きのフランス人女性が押し留めた。

「マダム、キスは、プリンスの手になさるものですよ」

言い終わらないうちに、フランソワが、手を差し出してきた。レディは苦笑し、その手にキスをした。

 この出来事は、「若い方のナポレオンの生意気な思い出」として、英国婦人の記憶に長く残った。





 ある日、シェーンブルン宮殿に、マリア・ルドヴィカが遊びに来た。オーストリアの皇妃で、マリー・ルイーゼの愛する義母リーベ・ママである。


 この日、彼女は、ルイーゼの弟、12歳のフランツ・カールを連れてきていた。この小さな叔父は、フランソワより9歳、年上である。

 体の弱いマリア・ルドヴィカは、産褥で死んだ先妻と違い、皇帝の子を産むことができなかった。彼女は、先妻の残した子どもたちを立派に育てることこそが、自分に課せられた役目だと、自負していた。


 シェーンブルンの庭園には、グロリエッテ(ギリシア建築の記念碑。対プロイセン戦の勝利と戦没者の慰霊の為に建立)や、軍人のヨーハン大公が集めた珍しい高山植物が植えられた一角、それに温室があった。フランソワが温室の近くの砂場にいると聞いて、マリア・ルドヴィカは、フランツ・カールをそちらへ向かわせた。



 「ルイーゼ。あなたは、痩せてきれいになったわね」

二人きりになると、マリア・ルドヴィカは言った。

「でも、中身は、まるで子どもね」


「え?」

いつも優しい義母が、不意に見せた敵意に、マリー・ルイーゼは怯んだ。


「あなたのその態度。『彼』のミニチュア画を肌身離さず身につけたり、『彼』への愛を口にしたり。まるで、思春期の少女のようだわ」

「だって、あの人は、私の夫なのよ!」


「あんなに、嫁ぐのを嫌がっていたのに?」

揶揄するように、マリア・ルドヴィカは言った。

「私達の敵なのよ! あの男のせいで、いったいどれだけの人が、殺されたことか」


「フランス人だって、大勢、死んだわ」

「ナポレオンは、まずは、外国人兵から、前線へ出すと、メッテルニヒが言っていた。死んだ兵士の大部分は、ドイツ兵やポルトガル兵だったのよ!」


「そんなことない! パリの人だって、大勢、死んでいる!」

「国のためにね。ナポレオンは、よく言っていたわね。フランスの為。フランスが一番大事って」


「当たり前よ。フランスの皇帝なんですもの」

「そのフランスの皇帝を、あなたは、本当に愛しているのかしら」

「もちろん!」


義母はため息をついた。

「あなたは、昔から、恋に恋していたわ」


 オーストリア皇女は、命じられたら、どこへでも嫁さなければならない。逆らうことは許されない。幼い頃から、厳しく躾けられている。

 恋は、普通は実らないものだ。皇女ともなると、どうしても、恋の相手は、自分より身分が低い人になってしまう。貴賎婚は、ハプスブルク家が最も、忌み嫌うものだった。


 マリア・ルドヴィカは、危惧していた。

 ヨーロッパの諸王家の中には、長い血族結婚の果てに、少しおかしい人もいた。栗ばかり焼いているとか、花嫁が誰だか理解できない、とか。

 そういう人に、愛するルイーゼがよう、彼女は祈っていた。


「そりゃね。ナポレオンはまともだったわよ? でも、彼は、人殺しなのよ!」

「夫を侮辱しないで! 私は彼を愛している」

「それ、本当に愛なのかしら。豪華なプレゼントをくれたり、人前で大切に扱ってみせたり、あなたによくしてくれた、年上の男性を見ていただけじゃないの? よく考えてご覧、ルイーゼ。今、ナポレオンは、あなたに何をしてくれる? 今の彼に、何ができるのかしら」


 その時、甲高い叫び声が聞こえた。

 ぎょっとした二人の婦人は、顔を見合わせ、慌てて、温室の裏へ向かった。


 砂場では、フランソワが真っ赤な顔をして、わめきたてていた。その横で、小さな叔父は、ぷい、と横を向いている。


「僕は、フランス人の子どもとは、遊ばない」

 マリア・ルドヴィカの姿を認めると、フランツ・カールは、きっぱりと言った。


 激しい拒絶に、フランソワは、びっくりしたようだった。

 マリー・ルイーゼに向かって、彼は叫んだ。

「ママ! このクソガキを、早くあっちへ連れて行ってよ!」





 敵意を向けられることが、全くなかったわけではない。それでも、シェーンブルン宮殿で、フランソワは幸福だった。

 彼には、ママ・キューがいた。フランス人の侍従やメイドもいた。

 その上、ウィーンのお菓子は、すてきに美味しかった。色や形も繊細で、美しい。母のテーブルから、その幾つかを分けて貰えるのを、フランソワは楽しみにしていた。


 そんなある日、パリに残してきた玩具が送り届けられた。ルイ18世に盗まれた筈の玩具だ。

 フランソワは歓声をあげた。

 慌てて威厳を取り戻し、せせら笑ってみせた。

 「ルイ18世って、意外と、臆病だな!」

 きっと、フランソワの怒りを恐れたのであろう。

 幾つか足りない玩具もあったが、それでも彼は、この上もなく、幸福だった。

 たったひとつ、父親に会えないことを除いて。



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