息子へ……
遠く南大西洋の、ごつごつした岩だらけの島で、ナポレオンは、息子の肖像画を見ていた。
セント・ヘレナの自室に、ナポレオンは、5点の、息子の肖像画を運び込んでいた。
息子を恋しく思っているのかと部下が気を回すと、ナポレオンは途端に、不機嫌になった。
「ふん! ローマ王は私のことなど、忘れてしまったさ」
怒りを含んだ口調で、彼は吐き捨てた。
◆
1821年。
ナポレオンが、セントヘレナに閉じ込められて、6年が経った。
妻、マリー・ルイーゼからの手紙は、とうの昔に途絶えていた。彼女が、ナイペルクという片目の将軍のものになったことも、ナポレオンは知っていた。
息子の消息は、皆目、わからない。
彼が放った有能な密使達も、オーストリアのぼんやりとした、だが、強固な
フェルディナント大公。カール大公。
皇帝の弟という、オーストリア高位の人脈を辿って、手紙を出した。だが、何の反応もない。妻子には届かなかったのだろうか。それとも、秘密警察に没収されてしまったのか。
その前の年、ナポレオンは最後の手紙を、パルマに送った。チト・モッシという密使に託したその手紙にも、妻からの返事はなかった。
ナポレオンは、失望していた。
ルイ18世の復古王朝の評判は悪かった。ブルボン朝は次第に、専制の色合いを深め、不満を抱くものは多かった。
ナポレオンについた者たちは、たとえ元からの貴族であっても、冷遇された。新興の貴族たちに至っては、伯爵や男爵などという名称では呼んで貰えず、子どもの頃のファーストネームで呼ばれるという有り様だった。
靴屋の倅や、洗濯屋の使い走りであった時の名で。
本当の実力でのし上がってきたのは、彼らの方だというのに。
王政が復活し、庶民にも、不満が募っていた。
昨年、ルイ18世の甥が、劇場から出てきたところを刺殺された。犯人は、馬具屋の男だった。ナポレオンには預かり知らぬことだったが、彼は、ボナパルト派を名乗ったという。
今年に入ってからは、宮殿で、火薬の入った樽が爆発したという話も伝わってきた。
今やフランスは、ナポレオンとその息子に、同情的だった。
……しかし。
彼は考えた。
……息子を奪還して自分がパリに返り咲くよりも、ウィーンにいたほうが、息子にとって、有利なのではないか。
……自分がこの岩だらけの島で死ねば、フランスの人々の気持を、より、息子に向けることができよう。
……殉教者の死こそが、息子の王座を守るのだ。
パリでは、ボナパルト派の将軍たちが、ルイ18世に反対の声をあげていた。だが、彼らはボナパルト派だけでは存続できず、次第に、自由派や共和派と手を組むようになった。さらには、イタリアに渡った過激な共和派、急進的なカルボナリとも通じるようになっていった。
もはや、フランスは、ナポレオン一人のものにはならないのだ。
ナポレオン2世、一人のものにも。
そのことを、ナポレオンは知らなかった。
*
息子へ[ナポレオンの遺書]
私の息子は、フランスのプリンスとして生まれたことを、忘れてはならない。そして、今、ヨーロッパを牛耳っている者どもの手先となってはいけない。決して、フランスと戦ってはならない。どんなことであれ、フランスを傷つけることなかれ。
父の座右の銘を、心に刻んでおくように。
「全ては、フランスの人々の為に」
父親を思い出すよすがとして、わが息子に、以下のものを遺贈する。
私の武器:オーストリアと戦った剣、ソビエスキのサーベル、短剣、剣、狩猟ナイフ、ベルサイユの2丁の銃。
私の化粧箱(オーストリアとのウルム戦を始め、数々の輝かしい戦いに出陣する朝、使ったものだ。だから、是非、私の息子に持っていて欲しい)。
これらの品々は、バートランド伯爵に託す。息子が16歳になったら、彼に渡すように。
*
3つのマホガニーの収納箱。
1つ目の箱には、33個の、嗅ぎたばこ入れや菓子箱が入っている。
2つ目の箱には、12個の箱が入っている。中身は、武器、小型望遠鏡、そして、1815年3月20日に、私がテュルリー宮殿の、ルイ18世のテーブルの上で見つけた、4つの箱が入っている。
3つ目の箱には、銀のメダルで飾られた嗅ぎたばこ入れが入っている。……。
それから、私が戦いの時に寝ていた野営ベッド。
双眼鏡。
化粧ケース。中には、服やシャツ、私の衣装一式が収められている。
時計が2つ。それから、皇妃の髪で編まれた鎖。
これらの品々は、私の、第一侍従のマルシャンに託す。息子が16歳になったら、彼に渡すように。
*
私のメダルの蒐集。
セントヘレナで使っていた、銀の皿と磁器。
これらの品々は、モントロン伯爵に託す。息子が16歳になったら、彼に渡すように。
*
セントへレナで使っていた、馬の
5つの番号入りの、競技用の銃。
これらの品々は、私の馬丁、ノーベラズに託す。息子が16歳になったら、彼に渡すように。
*
400巻の蔵書。私が最も慣れ親しんだ本を選んだ。
これらの品々は、デニス司祭に託す。息子が16歳になったら、彼に渡すように。
*
(以下、モントロンによる口述筆記)
息子は、私の死の復讐をしようと考えてはならない。むしろ、私の死から、学ぶべきだ。神よ。息子が、私のしたことを、忘れることのないよう、御慈悲を。息子は、私と同じように、指先まで、フランス人なのだ。彼の努力は、平和な統治の為にあるべきで、決して、支配するためだけであってはならない。しかし、その努力は、後世の栄誉に値しよう。
私は息子に、歴史に親しんでほしい。真理は、哲学の中にこそある。しかし、たとえ何を言われようと、あるいは、何を教えられようと、息子の心に、熱意や佳きものへの愛がない限り、それら学問は、何の役にも立たないだろう。熱意や愛がだけが、彼の成功を助けるのだ。私は、彼が自分の人生を価値あるものにすると、信じている。
【作者・補注】
ここで2回出てきたモントロン伯爵について。
銀の皿や陶器、メダルの蒐集(ナポレオンは、そんなものを集めてたんですね……)を、息子に渡すよう託された、そして、ナポレオンが遺書を書き終わってから、さらに言い残したことを口述筆記した、モントロン伯爵です。
モントロン伯爵は、ナポレオンについてセント・ヘレナまでやってきた、側近です。彼は、妻を伴ってきました。
実は、ナポレオンは、セント・ヘレナで、モントロン伯爵夫人に、女の子を産ませています。ジョセフィーヌ(ナポレオンの最初の奥さんの名前ですね)と名付けられたその女の子は、1818年1月に生まれ、翌年9月に亡くなっています。
そのため、モントロン伯爵は、ブルボン復古王朝のルイ18世と並び、ナポレオン殺害疑惑の(遺髪からヒ素が検出されたことから、殺害説が、俄然、真実味を帯びてきました)、重用な容疑者と目されています。動機は、嫉妬。
本文中では、あえて触れませんでした。ついでということで、この場を借りて、申し述べさせて頂きました。
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