フランク医師の死
この年も押し迫った、冬。
……あれ?
フランツの家庭教師コリンは、ホーフブルク宮殿の廊下で立ち止まった。
医務室の扉を開けて、女性が出てきた。
プリンスの居所で、女性の姿を見かけることは、珍しいことだった。なぜか、プリンス付きの
コリンは、これから、フランツに、フランス語のレッスンに行くところだった。
ドイツ語を使って、何不自由なく暮らせるようになったのはいいことだ。だが、王家のプリンスとして、フランス語を忘れましたでは済まされないものがある。
彼は今、かつての母国語を、文法からみっちり、しごかれているところだ。
医務室から出てきた女性は、コリンの姿に気が付き、軽く黙礼した。
……おやまあ、M夫人じゃないか。
M夫人……メッテルニヒ夫人、エレオノーレだ。
この国の外相を、陰でMと呼ぶのだということを、コリンは、教え子のレオポルディーネから教わった。
コリンは、Mが、嫌いだった。
なぜならMは、レオポルディーネを、政治の道具に使ったからだ。
皇女レオポルディーネは、Mの政策で、遠くブラジルへ嫁がされた。
ブラジルは、ポルトガルの支配下にあった。ポルトガル王室との関係を深め、また、将来生じるであろう新大陸の利権を確保する為に、彼女は、Mによって、「売られた」のだ。
皇帝の娘が「売られた」のは、彼女が初めてではない。
マリー・ルイーゼ……コリンの今の生徒フランツの母親……もまた、「売られた花嫁」だった。
フランスに売られた彼女は、なんとか生きて(神のご加護で!)、故国に生還することができた。
その代償は、今、息子が支払っている。幼いフランツは、父親からも母親から引き離され、たった一人で、戦っている。
戦っている……、コリンの目には、そうとしか映らなかった。
父を忘れまいと。
母を愛そうと。
自分の出自を、自我を、必死になって、フランツは、守ろうとしていた。
同僚、ディートリヒシュタイン言うところの「強情」とは、そういうことだと、コリンは理解していた。
M夫人は、なんだかやつれて見えた。外相の夫人として、疲れが溜まっているのだろう。
自分も黙礼を返し、コリンは、メッテルニヒ夫人を見送った。
……M夫人が、なぜ、プリンスの居所へ?
ここ何回か、コリンの授業は、休講になることが多かった。それも、当日、急に、休講とされたし、と、宮殿から通達が来るのだ。
翌日、プリンスに聞くと、音楽会へ行った、或いは、絵を観に連れて行かれた、と、様々な答えが返ってきた。
いずれも緊急を要するものではなく、わざわざ授業を潰さなくても、と、コリンには、不可解だった。
……なにか、Mと関係することだったのかな?
考えながら歩いていると、不意に、医務室のドアが、ばたんと開いた。
帰り支度をしたフランク医師が、立っていた。
その顔は、蒼白だった。
「大丈夫ですか、フランク先生?」
思わずコリンは呼びかけた。
フランク医師は、若い頃、予防学の分野において、先進的な改革を行った。だが、無知な医師指導者達の反感を買ってしまった。それで、暫くの間、乞われて、ロシア皇帝の侍医に招かれていた。
反骨の医師なのである。
普段はかくしゃくとしているこの医師が、ひどく顔色が悪いので、コリンは、心配になった。
「あ……」
夢から冷めた人のように、フランク医師は、コリンを見た。
「メッテルニヒ夫人がいらしてたのですか?」
何か悪い知らせでもあったのだろうかと、コリンは思った。
「いや、いや、いいや……」
はっきりしない否定の言葉を、フランク医師は口にした。
コリンは不審に思った。
たった今、この部屋を出るM夫人を見かけたばかりなのに。
フランク医師は、じっと、コリンの顔を見た。
「ディートリヒシュタイン伯爵は、融通の効かない堅物だ。フォレスチ大尉は、正義感が強すぎる。でも、コリン先生。あなたなら……」
「はい?」
「あなたは、皇帝のご息女達の教育を受け持っておられた。あなたなら、信頼できる」
「……」
何と言っていいのか、わからない。
コリンが戸惑っていると、フランク医師は、何かを追い払うかのように首を横に降った。
「いや、まだ早い。まだ、そうと決まったわけじゃない。まだ希望はあるんだ……」
「フランク
……ボケたのか?
さすがにそうは思わなかったが、それでも、コリンは憂慮した。というより、いっそ、気味が悪かった。
それほど、フランク医師の様子は、不安気で、落ち着きがなかったのだ。
「コリン先生」
フランク医師は、コリンの腕を、しっかりとつかんだ。
「プリンスを、よく見ていて下さい。何事も見逃さないように。どんな小さな兆候も……」
「兆候?」
「いや、なんでもない」
フランク医師は口を鎖した。
この医師は、プリンスがオーストリアに来た当初からの主治医であったことを、コリンは思い出した。
……あまりに急激な環境の変化は、プリンスの心と体によくないよ。
プリンスに、フランスから付いてきた女性看護士を、できるかぎり長く引き止めたのも、フランク医師である。
プリンスは、彼に、懐いていた。
……フランク
フォレスチと、気難しいディートリヒシュタインまでもが、そう言っていた。
フランク医師は、素早く周囲を見回した。そして、誰もいないことを確認した。
「いずれその時が来たら、お話しする」
それだけ言うと、足早に歩き去っていった。
プリンスが、熱を出したのは、それから少し経った頃だった。
ひどい熱が続いて、数週間、寝込んだ。
年が明け、カーニバル・シーズンが始まった。
彼は、去年も、カーニバルに参加できなかった。折り悪しく、ひどい風邪を引いたのだ。
今年は、参加させてやりたいと、ディートリヒシュタインは思った。
とにかく、彼はかわいい(外見は)。
だから、カーニバルに参加しさえすれば、人々の称賛を浴びるだろう。多くの人に受入れられ、皇族達との繋がりも、太くなるはずだ。
宮廷の人々との間に太いパイプを築くことは、親のいない彼には、必要なことだった。
幸い、熱は治まっていたので、参加は許可された。
皇帝の孫が、ダンスホールに登場すると、人々は、わっと沸き立った。
ダンスホールは、熱気でむんむんしていた。
最後のワルツが始まると、ディートリヒシュタインは、生徒を連れて引き上げた。
退場の混雑に巻き込まれたら、また、熱がぶりかえすと、危惧したのだ。
ディートリヒシュタイン先生は、かなり心配性だった。
カーニバルが終わってしばらく経った頃。
フランク医師が亡くなった。76歳だった。
もう年も年なので、その死に疑問を差し挟むものはいなかった。
それより、宮廷の人々の同情は、メッテルニヒ侯に集まっていた。
7月に入ってすぐ、メッテルニヒの娘、クレメンティンが亡くなった。まだ、16歳だった。
同じ月のうちに、クレメティンの姉、レオポルディーネが亡くなった。19歳の彼女は、エステルハーツィ伯爵と結婚したばかりだった。
二人とも、結核だったという。
メッテルニヒ家は、わずか一ヶ月の間に、二人の娘を亡くしたのだ。
「お気の毒に、奥様のエレオノーレ夫人の悲しみは、いかばかりだろう」
「それにしても、今年は、随分たくさんの人が亡くなりますね」
宮廷のあちこちで、人々は不安そうに顔を見合わせた。
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