After…(短編集)

アルゴスの献身 1

 「君は、顔色が悪いな」

ザンニーニが、モルの顔を覗き込んで言った。

「テレサにも言われた」

「また、彼女の家に行ったのか」

「ああ」


 ウィーン近郊に住む妹(※)一家を、モルは、ちょくちょく訪れていた。テレサの三人の娘たちも、モルによく懐いていた。


「それに、少し痩せた」

「食欲がまるで湧かないんだ」

深いため息を、ザンニーニがついた。

「やっぱり、療養が必要なんだな」

「スイスへ行くよう、上から命じられた」

「遠いな。いつ、帰ってくる」

「帰還命令が出たら」

憂鬱そうな色が、ザンニーニの顔を覆った。

「ケーヴェンフュラー伯爵夫人から出た話はどうするんだ?」

「ザンニーニ。なぜ、お前が知ってる」

「知ってるさ」


 どこから聞いたか、ザンニーニは、どうしても答えようとしなかった。仕方がないから、モルは白状した。

「あの話は、断った」

「またか」

うっすらと、ザンニーニが笑った。

「なぜ、断った?」

「今回のお相手は、二十歳のお嬢さんだぞ。彼女の夫になるには、俺は、年寄り過ぎる」

「前も、同じようなことを言ったな。だが、お前はまだ、たったの三十五歳だろ?」

「充分、年寄りだよ」


 まだ何か言いたげなザンニーニを残し、モルは、彼の部屋の外に出た。さきほど小金を握らせておいた子どもが、大急ぎで、預けた馬を引いて戻ってきた。

 モルは、馬に跨った。


 ……だが、どうにもやはり、体調が悪い。

 ……また、ホメオパシーでも受けてみようか。


 少量の毒を用いて、体の抵抗力を上げるという療法だ。

 実際、自分はそこまで悪くないと、モルは思っていた。

 プリンスのあの苦しみに比べたら、大概の病は、単なる不調に過ぎない。特にモルは、軍人だ。身体は人一倍、丈夫にできている。





 先月、モルの上官、ライヒシュタット公が、亡くなった。二十一歳だった。遺体を解剖した医師団は、結核と診断した。


 上官は、元フランスの皇帝ナポレオンと、オーストリアの皇女・マリー・ルイーゼの間に生まれた、プリンスだった。父ナポレオンの没落に伴って、ウィーンに引き取られ、祖父のオーストリア皇帝の元で養育された。彼は、一度として、付き添いなしにウィーンの外へ出ることを、許されなかった。


 ライヒシュタット公は早くから、父と同じ道を志した。十二歳の時、将校の一番下の位である軍曹から、その軍歴を始めた。二十歳で実際の軍務に就くに先駆け、ハルトマン、モル、スタンの三人の軍人が、補佐役として配属された。


 就任前、補佐役のトップ、ハルトマン将軍は、皇帝から、親書を受け取った。皇帝は、三人の軍人を、孫の見張り役とはっきりと位置づけ、女性や外国人など、不審人物との接触のないよう、厳しく見張ることを命じた。ナポレオンの息子である孫が、思想的に染められ、陰謀に巻き込まれることを警戒したのだ。


 ハルトマン、モル、スタンら、三人の軍人の使命は、単なる補佐官ではなかった。彼らは、皇帝が、ナポレオンの息子につけた、獄卒アルゴスだったのだ。

 この事実は、モルを、大いに苦しめた。彼は、十四歳年下の上官であるプリンスに、忠誠を誓いたかった。しかし、皇帝の命令に逆らうことはできない。プリンスと皇帝、二人の主の間で、均衡を保つことは難しかった。おまけに、祖父の意図を悟ったプリンスから、疎まれるまでになってしまった。


 軍曹の身分のまま、長いこと、プリンスに昇進はなかった。軍功がないのだから、昇進がないのは当たり前だが、彼は、皇帝の孫だ。いつまでも軍曹のまま放置されていた彼を、モルは気の毒に思った。


 しかし、さすがに皇族が軍曹のまま実務に就くのは、問題がある。皇室そのものの、威厳が保てない。軍務開始に際し、祖父の皇帝は、彼を大尉に昇進させた。


 皇族の初任地は、プラハと決まっている。しかし、ライヒシュタット公が配属されたのは、ハンガリー第六〇連隊だった。この連隊の司令本部は、アルザー通りにある。この期に及んでさえも、彼は、ウィーンから出ることを許されなかったのだ。


 それでも、若い彼は、希望に燃えていた。青い瞳を輝かせ、最初の一歩を踏み出した。

 初めて指揮を執った日。白い軍服は、彼の肌の白さと相まって、輝くばかりに、モルの目に映った。腰を絞ったデザインは、ライヒシュタット公の、ほっそりとした若々しいスタイルを、一層優雅に引き立てていた。


 しかし、彼は、お飾りの将校だった。彼の仕事は、街中での典礼行進の指揮に限られていた。もちろん、一度として、戦争に参加することはなかった(ああ、彼の父は、どれほど戦争が好きだったろう!)。それどころか、ウィーンから出ることさえ許されなかった。


 思えば、軍務に就いた頃、結核は既に、相当進行していたのだ。それでも、病をおして、彼は訓練に励み、ますます健康を損ねていった。年が明けると、プリンスは、気力を失っていた。それでも軍務を続け、冬の寒い日、シーゲンタール将軍の葬儀パレードの指揮を執った後で、喀血した。


 その後、短い小康状態が終わると、容態は雪崩を打つように悪化していった。彼は、郊外のシェーンブルン宮殿に移された。ここで、死を待つ身となった。


 病の進行に伴い、補佐官のモルらは、看護役へと、その職務をシフトした。ライヒシュタット公の最期の日々を共に過ごしたのは、医者を除けば、モルら三人の軍人だったと言っても、過言ではない。


 プリンスには、親しい友人が、三人いた。しかし、三人が三人とも、プリンスの任官に合わせるように、イタリア半島の各国へと、遠ざけられていた。

 また、幼いころから、彼のそばにいた家庭教師は、弱っていく教え子を、見守り続けることができなかった。死が避けられないものとなると、彼は、娘の出産を口実に、ウィーンから逃げ出してしまった。


 母親が来ないのは、それ以前からだった。

 北イタリアには、彼女の領土、パルマ公国がある。公主であるマリー・ルイーゼは、ナポレオンとの間に生まれた息子をウィーンに残すことを条件に、この地に封じられた。5歳になる直前の息子を置き去りにした母は、夫ナポレオンの生存中から、父親の違う子を、次々と産み続けた。彼女は、全部で7回しか、ウィーンの息子の元へ帰ってこなかった。


 今年六月。プリンスは、最後の秘跡を受けた。これは、カトリックの死の儀式である。秘跡を受けるよう、彼に勧めたのは、叔母のゾフィー大公妃だった。かつて、バイエルンの薔薇と讃えられた美妃は、皇帝の次男、フランツ・カール大公の妃として、嫁いできた。プリンスより六歳年上の彼女は、彼と、ことのほか親しく、一部の口さがない者たちの間では、愛人であると囁かれていた。


 秘跡を受けるとは、即ち、死が、身近にあると認めることだ。長いこと、プリンスは、秘跡も、神父の訪れも、拒否してきた。しかし、愛する叔母君から勧められ、首を縦に振らざるを得なかった。

 彼はまだ、二十一歳と三ヶ月でしかなかったのに。


 彼の母親、ナポレオンの二人目の妻が、7度目に、そして、最後に息子を訪問したのは、秘跡を受けた四日後の夕方だった。

 それから一ヶ月、彼は、運命と戦った。瀕死の状態で、一ヶ月も生き抜くことができたのは、母が来てくれたおかげだと、一般には考えられている。


 モルは、そうは思わない。皇女は、一日のうち、わずかな時間しか、息子の病室を訪れなかった。それでよかったのだ。プリンスは、耳が聞こえづらくなっていた。深窓育ちの母親の声は、プリンスには、全く届かない。母子の意思疎通は難しかった。母が帰った後、モルが病室に戻ってみると、プリンスはいつも、ぐったりと疲れ切っていた。





 モルが自分の不調に気がついたのは、ライヒシュタット公の闘病末期のことだった。病室の籠った空気のせいか、変に悪心を感じたのが始まりだった。体に力が入らず、物を食べようとすると、吐き気がする。

 ここで自分が看護の任から外されたら、大変なことになる……。それだけを、モルは、気に病んだ。ライヒシュタット公の最期の日々に、本当の意味で、彼と会話を交わせたのは、モルだけだったからだ。


 プリンスは、当初は、皇帝そふの犬と、モルら補佐官を貶んでいた。シェーンブルン宮殿に移ってからも、モルたちの言うことを聞こうとしなかった。病人は、ひっきりなしに外出したがり、それは確実に、病状を悪化させた。


 ついに彼を叱りつけ、外出を禁じたのは、モルだった。

 モルは、身を尽くして、プリンスの看護をした。汚れ物の始末さえ、厭わなかった。それは、軍人の仕事ではなかった。けれどモルは上官に対する敬意をもって、この任を遂行し続けた。

 モルの献身が伝わったのか。プリンスは時折、心の深みを垣間見せてくれることがあった。

 死期の近づいたある晩のことだった。彼は、モルの手を取って、子どものような声で、感謝の気持ちを囁いた。








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※姉かもしれません





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