兄の侯爵
ナポレオーネ・カメラータを名乗る伯爵夫人が、接触してきた。
彼女は、ナポレオンの親族を装っている。
カメラータ伯爵夫人は、立て続けに手紙を寄越した。この未知の女性は、なんとしても、自分と会いたがっている……。
こと、ここに至って、フランソワには、彼女とのやりとりを隠し通すことが難しくなってきた。
そもそも、オベナウスは、最初から全てを目撃している。手紙を届けたのも、オベナウスの召使いだ。
フランソワは、オベナウスに打ち明けた。
オベナウスは驚き、すぐさまこれを、上司であるディートリヒシュタインに報告した。
ディートリヒシュタインは冷静だった。
それもそのはず、ナポレオーネの最初の2通の手紙は、彼の手に落ちていたのだ。
ナポレオーネが、最初の2通を託したのは、ライヒシュタット家の召使いだった。
召使いは、これを、フランソワにではなく、その目付役、ディートリヒシュタインに手渡したのだ。
忠実な国家のしもべ、ディートリヒシュタインは、この2通を、秘密警察長官、セドルニツキ伯爵に届けた。
お返しにセドルニツキは、ナポレオンの姪が、ウィーンに来ていることを教えてくれた。
……大丈夫。奇矯なだけで、害のない女ですよ。
セドルニツキは自信ありげだった。
……彼女には、私の部下が張り付いています。ご心配には及びません。
その矢先のことだった。
……全く、セドルニツキは何をやっているのだ。
……部下が張り付いているから、安心だと言ったじゃないか。
ディートリヒシュタインは、憤った。
オベナウスが、3通目の手紙が届けられたと、知らせてきたのだ。
しかもそれは、プリンスへの、直接手渡しだった。ナポレオンの姪が、プリンスに接触したのだ。
そして今、4通目の手紙が、プリンスに届けられた……。
事態は、抜き差しならぬところまで来ていると、ディートリヒシュタインは考えた。
彼が意見を仰いだのは、今回も、兄のF・J・ディートリヒシュタイン侯だった。
……この女性の執念は、プリンスにとって危険過ぎる。
ナポレオンの姪を、プリンスに近づけるべきではないということで、兄と弟の意見は一致した。それどころか、「ナポレオーネ・カメラータ伯爵夫人」が、ナポレオンの姪であることも、プリンスには隠し通すことを、二人して、示し合わせた。
**
「彼女から受け取った手紙は、どうされましたか?」
「焼き捨てました」
「返事は?」
「書きませんでした」
プリンスの振る舞いは、兄の侯爵には、ごく自然に見えた。
「本当かね?」
何度ものフランソワ罠に嵌っている
プリンスは、眉を上げた。
「だって、何も出てこなかったでしょう? ディートリヒシュタイン先生。先生は、僕の部屋を探った筈です。それとも、オベナウス先生が?」
幼い頃から、プリンスの身の回りを探るのは、家庭教師の任務だった。怪しい人物が接触していないか。不審な物を隠していないか。そして、生徒が、おかしな考えに染まってはいないか。
「昨日も、部屋に帰ると、物の配置が変わっていましたし」
「……オベナウスだ」
苦虫を噛み潰したような顔で、ディートリヒシュタインは答えた。
兄の侯爵が、穏やかに微笑んだ。
「手紙を焼いたのは、正しい判断だったと思いますよ。私があなたの年齢だったら、プリンス。私もあなたと同じようにしたでしょう」
「教えて下さい、ディートリヒシュタイン侯爵」
さり気なく、フランソワが尋ねる。ほんのついでに、聞いてみた、というような口調だ。
「カメラータ伯爵夫人は、ナポレオンの……つまり、僕の親戚なのですか?」
「さあ。3通目の手紙を、私は、拝読しておりませんしね」
侯爵は答えた。
傍らで
一瞬だけ、フランソワの顔に、悔しそうな色が浮かんだ。家庭教師兄弟が、自分に隠し立てをしたことを悟ったのだ。
しかし、すぐに、その色は失せ、穏やかな微笑に取って代わった。
兄の侯爵は、何も気づかなかった。年少の者へ向ける慈愛深い笑みを、彼は浮かべた。
「一般に、女性からの手紙には、最大限の敬意を払うべきです。ましてや、この女性は、プリンス、あなたに好意を持っているわけですから」
青白かったフランソワの頬に、さっと赤みが差した。
「ああ、君はまだ若いね。君のその若さは、私のような年寄りに、忘れていた青春の華やぎを、思い出させてくれますよ」
侯爵は、いたずらっぽく笑った。
「私が女性から手紙を受け取ったら……そうですね。まず先に、写しを作ります」
「写しを?」
「そうです。相手の女性に敬意を表して」
「……」
「火中に投じるのは、その後でもいいのですよ。プリンス。あなたにはまだ、おわかりにならないかもしれない。この年齢になるとね。そうした艶のある思い出を懐かしむ、
こほんと、弟の家庭教師が、咳払いをした。
兄の侯爵は、にっこりと笑った。
「そして、彼女のことは、決して、誰にも言いません」
「……」
フランソワは、秘密を胸に秘めていることができなかった。彼は、プロケシュに打ち明け、さらに、オベナウスにも……。
プロケシュ少佐は、まだ、いい。彼は、親友だから。しかし、
フランソワは、うつむき、うなだれてしまった。
※
家庭教師のディートリヒシュタインの兄、2度目の登場です。前回は、7章「家庭教師の願い」に出てきました。
ディートリヒシュタイン家の長兄、フランツ・ヨーゼフ・ディートリヒシュタイン侯爵は、弟のモーリツと同じように元軍人で、当代きっての知識人でした。また、兄は、ディートリヒシュタイン家の長として、有力者でもありました。石頭の弟以上に、宰相メッテルニヒには、批判的であったようです。
特に、フランス7月革命の頃から、家庭教師のディートリヒシュタインは、ことあるごとに、兄の意見を仰いでいます。自分の判断では、対処しきれないと感じるようになってきたのでしょう。教え子にとって最良の道を、模索していたと思われます。
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