フランツ・ヨーゼフ誕生


 フランソワは、シェーンブルン宮殿郊外の離宮ホーフブルク宮殿ウィーン市内を、行ったり来たりしていた。


 バーデンに到着したマリー・ルイーゼは、ホーフブルク宮殿へ移ろうとしなかった。ウィーン宮廷の、そして、ウィーンの街中で噂される、悪評を恐れているのだ。

 ナイペルクとの秘密の結婚、そして、前夫ナポレオンの生存中に生まれた、二人の子どもたちに関する、悪意あるゴシップ


 彼女は、怯えていた。



 フランソワは、なるべく、シェーンブルンに滞在するようにしていた。

 もちろん、軍務で市内に戻らなければならない日も多かった。

 だが、教練が終わると、すぐにまた、母の元へ馳せ参じる。

 彼は決して、パルマの異父妹弟の話題を出さなかった。

 その姿は、さながら、母に寄り添う、金髪碧眼の、騎士ナイトそのものだった。







 8月18日。

 F・カール大公とゾフィーとの間に、待望の、男の子が生まれた。フランツ・ヨーゼフと名付けられたこの子は、後に、68年もの在位を誇る皇帝となる。




 「見たこともないほど、愛らしい子どもね!」

伯母となったマリー・ルイーゼが褒めそやす。


 出産は、シェーンブルン宮殿でなされた。宮廷が、こぞって、夏の離宮に移っていた。


 マリー・ルイーゼは、ゆりかごを覗き込んでいる。赤子が、くしゃりと顔を歪ませた。

「あ。泣く。ほらほら、お母さん!」

「大丈夫ですわ、お義姉さま」

ゾフィーは、息子を抱き上げた。まだ不慣れな手付きではあったが、迷いはなかった。


 傍らで、養育係のバロネス・ストゥムフィーダーが、どっしりと構え、母子を見守っている。


「あら。貴女は、自分でだっこするのね!」

驚いたように、ルイーズが尋ねた。

「ええ」

にっこりと、ゾフィーは笑った。



 彼女は、決意していた。

 この子は……この子に限らず、これから自分が産む子は……、必ず、この手で育てる、と。

 成長するまで自分の膝下に置いて、決して、手離しはしない、と。

 それは、母と引き離されて、孤独に育った男の子の悲哀を、身近に見てきたからであって……。



「貴女、怖くはなくて?」

マリー・ルイーゼが、不思議そうに尋ねる。

「怖い? 何がです?」

「そんなに小さくて、形の定まらないものを……その上、ぐにゃぐにゃ動くし……だっこして、落としたりしないかしら?」


「怖いです」

大真面目で、ゾフィーは答えた。

「でも、私がだっこすると、赤ちゃんが喜んでくれるような気がして……」


 ゾフィーに抱き上げられた赤子は、握りしめた拳を振り回した。

 緩めた口が、笑っているように見える。口元から、透明な涎が、すすうーっ、と流れた。


「あ、汚い!」

 マリー・ルイーゼがつぶやいたのと、ためらわずにゾフィーがガーゼで拭ったのは、ほぼ、同時だった。


 バロネス・ストゥムフィーダーが、咳払いをした。



 「今日の赤ちゃんの様子は、どう?」

微妙な空気を薙ぎ払うような、明るい声がした。

「あ、母上もいらしてたんですね!」

母の姿を見つけ、フランソワは、顔を輝かせた。


 彼は、黄色いひまわりを手にしていた。

「これ。庭で見つけてきた。君にだよ、ゾフィー」

「ありがとう、フランツル」

 ゾフィーは喜んだ。赤子中心の生活は、ほんの少しの、母親自分へのねぎらいが、嬉しいのだ。


 赤子が、くしゅんといった。

「ダメよ、フランツ。赤ちゃんのいる部屋に、花なんて」

マリー・ルイーゼが咎める。

「かわいそうなフランツ・ヨーゼフが、くしゃみをしているわ」

「あ、……ごめんなさい」

フランソワが、母と赤子と、両方に謝った。


 バロネス・ストゥムフィーダーが、ひまわりを受け取った。彼女は、ちらりと口元を緩め、フランソワに頷いてみせた。

 ゾフィーも微笑んだ。

「大丈夫ですよ、お義姉さま。平気よ、フランツル。鮮やかな色は、赤ちゃんは嬉しいの。ほら。お花の方を見て、笑ってる」

「そう?」


 そろそろと、フランソワが近寄ってきた。

 ゾフィーの腕の中を、そっと覗き込む。

「すごくかわいい。どこもかしこもきれいだ」

低い声で囁く。


 赤ん坊は、涎だらけの拳を突き出した。

「僕を見てるよ!」

興奮して、フランソワが叫んだ。

「ほら、お母様!」

「まだ、人の顔なんて、見えてないわよ」

マリー・ルイーゼが指摘した。

「でも、お母様。ほら! 笑った! 僕を見てる!」


 つややかな二つの眼球には、フランソワが微笑む姿が映っている。

 突き出された小さな拳を、フランソワは、そっと撫でた。


 マリー・ルイーゼは、顔を顰めた。


 この時期の赤子の笑いに、感情はない。もっといえば、それは、笑みなどではない。ぎこちなくしか動かない、筋肉の不随意運動に過ぎないことを、何人も子どもを産んだ彼女は、知っていた。

 そして、自分の子どもの時と同じく、不気味に思った。


 だが、彼女の息子は、違った。

 彼は、完全に、赤子の虜になっていた。

「なんてかわいいんだろう。ねえ、お母様。僕も赤ちゃんの頃は、こんな風でしたか?」

「赤子なんて、どれもだいたい、似たようなものですよ」

言ってしまってから、マリー・ルイーゼは、慌てて付け加えた。

「でも、この子は特別! 特別、愛らしいわ!」


 なにせこの子は、いずれ、オーストリア皇帝を継ぐ身なのだ。

 彼女の父の治める、この国を。


「とろけちゃいそうだね」

うっとりと、その息子が言う。

「ホイップ・クリームをトッピングした、ストロベリー・アイスみたいだ!」


 ゾフィーとマリー・ルイーゼは顔を見合わせた。

 吹き出した。

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