タンプル塔を出て



 9年前。

 一家でたった一人生き残ったマリー・テレーズは、従兄弟であるフランツ帝に引き取られて、ウィーンにやってきた。


 17歳だった。


 タンプル塔に3年も閉じ込められ、その間に、父も母も、仲の良かった叔母も、無残に処刑された。小さな弟は、衰弱して死んだと伝えられている。最後の2年近くの間、彼女はたった一人で幽閉されていた。

 長いこと陽の光を浴びない肌は、ことさらに白く、印象的な水色の目は、澄んでいた。

 過酷な体験が、高慢だった少女を、美しく磨き上げていた。



 7歳年下のこの従姉妹を娶ったらどうだと、カールは、兄のフランツ帝に勧められた。


 初めは、戸惑いしかなかった。

 彼女がウィーンに到着するやいなや、皇帝が、ある書類にサインさせようとしたという話を聞いたからだ。


 その書類は、ブルゴーニュやアルザス、ロレーヌなど、要所に対するマリー・テレーズの世襲を表明していた。皇帝の弟であるフランツが、彼女と結婚するということは、フランスにおける領土の大半を、オーストリアが手に入れるということに他ならない。


 ……余人は戦をすべし。幸いなるかなオーストリア、汝はまぐわうべし。


 ハプスブルク家の、いつものやり方だ。戦わずに、婚姻によって、版図を広げるのだ。

 だがそれは、皇帝の娘、大公女の役割ではなかったか。



 マリー・テレーズは、書類にサインすることを拒んだ。

 領土はフランスのものであり、自分のものではないというのが、その理由だ。


 この時、カールの心に、初めて、小さな引っかかりができた。

 状況に流されず、恩人である皇帝の言うことにさえ逆らった彼女に、好感のような気持が芽生えた。



 ウィーン到着当初、両親と叔母、弟の死を悼み、彼女は、喪服を着用していた。季節は春に向かい、明るい日差しの中で、黒い服は、殊さらに悲痛に見えた。


 ある時を堺に、彼女はそれを、紺青色の服に変えた。ブルボン家の旗の色である。

 自分は、ハプスブルク家の人間ではなく、ブルボン家の人間であることを、強く主張したのだ。



 ……ものすごく、しっかりしている。

 カールは思った。


 その強さは、家族を失い、自身も思春期を奪われた悲惨な体験からきているのだ。

 カールの心に、尊敬と称賛が湧いた。



 「おやめなさい、フランスの内親王は」

 水を差したのは、ウィーンの秘密警察の情報員だった。

 部下の兵士の友達であるこの男は、真剣な顔をして、カールに告げた。

「あの女、大公のことを、愛想はいいけど、顔がアレだ、なんて言ってますぜ」



 秘密警察は、常に、マリー・テレーズの身の回りを監視していた。手紙は、来るものも出されるものも、ことごとく、彼らのデスクを通過する。



 「アレ?」

「つまりその、醜いと」


 一瞬、言葉に詰まった後、カールは、弾けたように笑いだした。

 ハプスブルク家大公プリンスで、勇敢な将校である彼は、常に、女性たちの熱い視線の的だった。容姿に自惚れがあるわけではないが、カールは、自分に自信を持っていた。


 戦い、国を守る自信だ。


 だから、誰に何を言われても平気だった。

 それを、「顔が醜い」とは……。



 カールの爆笑に気を悪くしたのか、情報員は、無言で、友人であるカールの部下を顧みた。


 部下は頷いた。

「テレーズ様のお書きになった手紙です」

 彼は、くるくる巻いた紙を手渡した。広げてみると、白紙だった。


「何も書いてないじゃないか」

長かった幽閉生活で、従姉妹は、頭がおかしくなってしまったのかと、カールは心配になった。


 「こいつが、曲者なのです」

 部下は言うと、広げた紙を、蝋燭の火にかざした。


 わずかな熱に炙られ、薄茶色のシミが浮き出てきた。

 しみは、みるみるうちに形を整え、優美な手跡となった。


 「レモンの汁で書かれています」

部下は言った。

「こうやって、彼女は、ブルボンの連中と連絡を取り合っているのです。オーストリアの庇護を受けながら!」


 手紙には、まだフランツ帝から、母の財産を渡されていない、と記されていた。


「アントワネット様の残されたものは、我らが皇帝が厳重に管理なさって、テレーズ様には、いずれお渡しするとおっしゃっているのに。莫大な財産を、17歳の小娘に渡すなんて、そんな危ないことができるわけがない!」

 部下は憤慨していた。


 だがカールは、人生に絶望していないマリー・テレーズの姿勢に感銘を受けた。そして、不幸なこの従姉妹に、幸せになってほしい、と思った。

 能うるなら、自分の手で……。





 カールとマリー・テレーズの結婚話は、一向にまとまらなかった。

 オーストリアの検閲官は、マリー・テレーズ宛の手紙を、何通か手に入れた。それらには、皇帝の弟と結婚してはいけない、と警告を発していた。


 逃亡中のフランス王、ルイ18世は、ブルボン家の結束を訴えていた。彼には子どもがいなかったので、彼の姪・マリー・テレーズは、同じく甥・アングレーム公と結婚するべきだ、というのだ。


 ダメ押しのように、これは、彼女の母親、マリー・アントワネットの生前の希望でもあった、と書き添えられていた。





 カールは、焦らなかった。



 フランツ帝は、彼女への無用な入れ知恵を排除する為に、フランスからついてきた側近たちを、追い出した。


 一方で、マリー・テレーズは、ドイツ語が得意ではなかった。子供の頃に習ったきり、殆ど忘れかけている。

 言葉の不自由な彼女を、カールは気遣った。


 ドイツ語しか話さない侍従やメイドに彼女の要望を伝えたり、妹のアマーリエやマリア・クレメンティーナとの仲を取り持ったりもした。


 少しだけ、迷惑そうな顔をして、彼女はカールの親切を受け容れた。

 だが、彼と二人きりになることは、極力、避けているようだった。





 そうしているうちに、総裁政府下のフランスが勢力を盛り返した。イタリアとライン方面の両方から、オーストリアに戦いを挑んできた。

 カールは、ライン川流域に出陣することになった。


 戦いに出かける前に、自分の気持を明らかにしようと、彼は、思った。

 彼は、兄の皇帝、兄嫁、妹たちに、自分の気持を伝えた。だが、肝心のマリー・テレーズには、何も打ち明けなかった。

 彼女には、行動を通じて思いを伝えようと、決意していた。





 ライン流域でのカール大公の働きは目覚ましかった。帝国軍は、素晴らしい勝利を納めた。

 たかがオーストリアのプリンスと侮っていたフランスの将校らは、手痛い敗北を舐める羽目に陥った。


 だが、危機は、イタリアから迫っていた。若い将軍ボナパルトがイタリアを制圧し、すぐにもウィーンに迫る勢いだった。


 マリー・テレーズがウィーンに来た翌年早々、カールは、イタリア戦線へ赴いた。

 ……今回は、ライン地方のようにうまく事は運ばないかも知れない。

 微かな予感が、黒い澱のように、心に淀んでいた。





 不吉な予感は的中した。

 オーストリア軍はフランス軍に敗退し、カールは、不利な条約を飲んだ。

 帝国はブルゴーニュ、ロンバルディア、ベルギーなどの領土を失った。





 ウィーンに戻ったカールは、マリー・テレーズが、パーティや舞踏会に出席し、フランツ帝の妹や妻との社交的な活動に勤しんでいると聞いて、意外に思った。

 舞踏会で見かけた、青いドレス姿の彼女は、神々しいばかりに美しかった。


 彼女だって若い娘なのだから、同じ年頃の女の子と遊んだり、舞踏会で踊ったりするのは、なんら、不思議なことではない。

 ただ、……ただ、なんとなく、歌い踊るその姿は、彼女の本来ではないように、カールには思えた。


 「ああ、そりゃ、『見せかけの盲従』ってやつですよ」

例の秘密情報員が訳知り顔に、教えてくれた。

ルイ18世叔父さんがそう言って、褒めてましたぜ」


 あいかわらず、逃亡中のルイ18性からは、従兄弟のアングレーム公と結婚するようにという手紙が届いているという。



 マリー・テレーズの父、ルイ16世は、処刑される前に、財産の一部を、こっそりアメリカ合衆国の公使に託していた。善良なこの元公使から受け取った資金を、彼女はそっくり、フランス亡命貴族に送付していた。


 ……やっぱり、彼女は彼女だ!

 苦虫を噛み潰したような兄の皇帝からその話を聞いた時、カールは思わず、笑いだしてしまった。


 「笑っていないで、さっさと結婚を申し込んだらどうだ?」

不機嫌を崩さず、兄帝は言った。

「お前だって、彼女のことが好きだと言ったじゃないか」


どうやら、舞踏会や社交は、彼女をウィーンに留め、弟と彼女を近づけようという兄の策略らしかった。


「ええ、彼女に夢中です。でも、兄上」

急に真顔になって、カールは言った。

「私は未だ、フランスを、撃退してはおりません」


「何を言うのだ」

驚いた顔を、兄帝はした。

「ライン方面でのお前の活躍は……」


「フランスに全面勝利をしてはおりません。それどころか、ベルギーやイタリアの大半を失った。むしろ、敗北です」

きっぱりとカールは言った。


「カール」

深い溜め息を、兄はついた。

「この戦いは長くなる。そんなに長い間、待たせるつもりか? 女の気持も、少しは、考えてやれ」


「……」

まだ若いカールには、答える言葉もなかった。





 1799年、ラシュタット会議が決裂し、フランスは再び、オーストリアに宣戦布告をした。オーストリアは、イギリスの他、ロシア、トルコとも手を結び、これに立ち向かった。

 カールは、スイスの防衛に赴くことになった。





 出発前日の夕方、彼は、宮殿の中庭に佇む白い影を見つけた。

 マリー・テレーズだ。

 一人でいる彼女を、やっと見つけた。


 近づいてくるカールに気がつくと、マリー・テレーズは、身構えた。


 「怯えないでほしい」

カールは声をかけた。

 無骨な呼びかけに、テレーズが、わずかに微笑んだような気がした。


 勇を得て、カールは言った。長い間、言わなければならないと思っていたことを。

「救出が遅れて、本当に申し訳なかった。貴女は、恨んでいるだろうか。私達の国が、貴女のご両親と弟さんに冷淡だったと」



 フランツ帝は、フランスへ嫁いだ叔母の顔を知らない。

 だから、見殺しにしたのだと、ヨーロッパのあちこちで囁かれた。


 だがそれは、違う。


 フランス革命の初期、オーストリアは、内政干渉を理由に、静観の構えだった。フランツ帝の伯父、ヨーゼフ2世、そして父、レオポルト2世治下の頃からである。


 1791年、ヴァレンヌ事件が起きる。オーストリアへの亡命を謀った国王一家は捕らえられ、デュルリー宮殿に幽閉状態となった。

 立憲王制の道さえ、完全に潰え去ったのだ。


 革命初期に亡命していたフランス王弟アルトワ伯(後のシャルル10世)のたっての頼みに、オーストリアのレオポルト2世と、プロイセンのヴィルヘルム2世は、「ピルニッツ宣言」を出した。ここに至ってもまだ、必要があるなら介入する、程度の牽制に過ぎなかった。


 だが、フランス革命政府は、深刻に捉えた。

 翌年4月、フランス革命政府は、オーストリアに宣戦布告をしてきた。


 ところが、オーストリアではその前月、レオポルト2世が急死していた。伯父ヨーゼフ2世レオポルト2世の相次ぐ急死を受け、帝位は、レオポルト2世の長男、フランツに受け継がれた。


 即位はしたが、弱冠24歳の皇帝フランツは、宮廷内の旧勢力を一掃する必要があった。加えて、イギリス、ロシアなどの大国と、協調していかなければならない。神聖ローマ帝国は崩壊しかけており、その権威は、何の訳にも立たないどころか、むしろ邪魔だった。


 このごたごたの中で、フランス国王ルイ16世は処刑された。次いで、王位アントワネットも。


 ハプスブルク家の女性の処刑、それもギロチンでの処刑は、兄帝をはじめ、カールら甥達には、耐え難いものだった。

 唯一生き残ったアントワネットの娘、従姉妹のマリー・テレーズとの再会した時には、兄帝もカールも、傷ましさと申し訳無さで、顔を上げることができなかった。




 「いいえ。そんなふうには思ってはおりません」

だが、意外にも、テレーズは首を横に振った。


 なおもカールは続けた。

「だが、憎んでおられる筈だ。貴女から家族を取り上げた者どもを」


「父に最後に会った時、」

 そう言うマリー・テレーズの声は、低くかすれていた。4年間の幽閉生活で、発声障害を起こしてしまっているのだ。

「決して自分の復讐はしないようにと、父は言いました。あなた達は、父のことを、ぼんくらな王だと思っているのでしょうけど」


「そんなことはない」

即座にカールは否定した。


 彼の兄も、凡庸な皇帝だと、一部の臣下達に噂されている。廷臣たちが惜しむのは、彼、カールや、弟のヨーハンなのだ。

 だが、自分たちがどれだけ、兄より優れているというのだろう!


 カールは、伯母夫婦の養子となり、他の兄弟たちとは離れて育った。体の弱い華奢な体格だったが、為に、一層、軍人に憧れた。

 そんな彼の願いを聞き入れ、軍務への道を歩ませてくれたのは、兄の計らいだった。


 凡庸と言われる兄は、家庭を大事にしていた。戦場からも、妻への手紙を欠かさないという。


 ルイ16世も、妻アントワネットや娘のテレーズ、息子のルイ・シャルルを、どれだけ大切に思っていたことだろう。たとえそれが、王の資質としてふさわしくなくても、子どもにとっては重要なことだと、カールは思った。

 王朝の未来を担うのは、まっすぐ育った子どもたちなのだ。



 カールの強い否定に、マリー・テレーズは目を伏せた。早口に付け足す。

「母の遺書にも、決して、復讐をしようなどと思ってはいけない、と書いてありました」


 「母」という言葉が、少し、高くなった。しかし彼女の喉は、高い音を出しきることができなかった。よりいっそう、「母」という言葉はかすれた。


 「貴女の受けた苦しみに敬意を表します。貴女を、幸せにしたい」

 マリー・テレーズは目を見開いた。


 大きな瞳に映った自分に向かって、カールは、更に言葉を重ねる。

「今からでは遅すぎると、貴女は思われるかもしれない。だが……、この私が誅してこよう。あなたの父上、母上、弟君……私の叔母と、小さな従兄弟を、むごい方法で殺したやつばらを」


 カールは、彼女の手を取った。従姉妹の手は、小さく、冷たかった。ぐったりとした魚のように、反応がない。

「だから、お願いだから、私が戦場から帰ってくるまで、待っていてくれないだろうか」



 ルイ16世とマリー・アントワネットを斬首し、テレーズの弟を幽閉中に死なせたのは、革命思想だ。

 そのフランス革命軍との戦いに、明日、カールは出陣する。


 カールは一層強く、白い手を握った。

「必ず勝って帰る。だから、待っていて欲しい」


 やっと、マリー・テレーズは、自分の手を握られていることに気づいたようだった。火傷したように、カールの手から引き抜こうとした。

 いま暫くの間、カールは、その手を放さなかった。







 北イタリアで勝利したロシア軍が、スイスへやってきた。スイスにゆとりが生まれ、カールは再び、ライン方面へ赴くことになった。休暇を兼ねて、彼は一時、ウィーンへ帰った。


 ……女というものは、待たせてはいけないものなのだ。

 兄の皇帝に諭されたカールは、心を決めた。


 マリー・テレーズは今年、21歳になる。カールは、28歳になる。

 フランスとの戦いが長引くのなら、今のこの時を捉える他は、あるまい。



 同盟軍の勝利は続いていた。

 ウィーンに凱旋すると、……従姉妹の姿は消えていた。



 その頃、マリー・テレーズの叔父、ルイ18世は、ロシア皇帝の庇護を得て、ロシア領ミタウに居を定めていた。1799年5月、マリー・テレーズは、ミタウへ旅立っていった。父方の従兄弟、アングレーム公と結婚するために。


 彼女は、母方の従兄弟カールではなく、フランス、ブルボン家を選んだのだ。





 同じ年の11月、エジプトから急ぎ戻ったナポレオンは、ブリュメール18日のクーデターを起こし、フランスの政権を掌握する。


 翌年、マレンゴで、オーストリア軍は、ナポレオン軍に敗北した。

 これにより、フランスは、イタリア北部を再び、掌中に納めた。


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