ゾフィーとフランツル
赤ん坊は、うっとりとした眼差しで、
それでも、ゾフィーは、我が子を養育係に預けようとしなかった。ぐずるのを、抱き上げ、あやし続けた。
母親とわかるのか。彼女の腕の中で、赤子は静かになった。
湿った重みが、一段と増す。その重量が、愛おしい。
……この子は私に、命を預けてくれている。
絶対の信頼を感じた。この信頼に報いることのできるものがあるとしたら、それは、無償の愛だけだ。
静かに、ドアが開いた。
金色の頭が、ひょいと差し込まれる。
「ゾフィー」
呼びかけて、赤ん坊が眠りかけているのに気がついた。慌てて、フランソワは、自分の唇に手を当てた。
「しーーーっ」
養育係のバロネス・ストゥムフィーダーが吹き出した。
フランツ・ヨーゼフは、すっかり眠ってしまっていた。
バロネスは、ゾフィーの腕から、赤子を受け取った。足音を忍ばせ、部屋を出ていった。
「今日、皇妃様に呼ばれたでしょう?」
バロネス・ストゥムフィーダーの姿が見えなくなると、ゾフィーは尋ねた。意味もなく、自分の髪に触る。
「呼ばれた」
フランソワは、浮かない顔だった。
「ヴァーサ公の人柄について、聞かれたよ。
「それで?」
フランソワは、じっとゾフィーを見つめた。
「……知ってたんだね、ゾフィー。ヴァーサ公と、バーデン大公女との縁組みのこと」
ゾフィーは、答えなかった。重ねて尋ねた。
「それで、あなたは、何て?」
「何てって……。いい人だって、答えたよ」
「いい人」
しみじみと、ゾフィーはつぶやいた。
「いい人……」
「ゾフィー」
フランソワが呼びかけた。今回も、ゾフィーは答えようとしない。
そんな彼女に、フランソワが畳み掛ける。
「ヴァーサ公が、
「私に、そんなことを言う資格は……」
途中で、ゾフィーは、言葉を途切らせた。
「だって、私は……」
「ゾフィー! 君、もしかして……。この策略を考えたのは、……君か!?」
お人好しの
考えにくいことだった。
この組み合わせを考えたのは、別の人間だ。
皇妃の同母姉アウグステは、ゾフィーの異母姉でもある。
アウグステの亡くなった夫とは、ナポレオンの養子(ジョセフィーヌの連れ子)、ウジェーヌ・ド・ボアルネだ。
……フランツル。これからする話は、ここだけの秘密にしてほしいの。誰にも言ったら、ダメ。守れる?
4年前、ゾフィーはそう言って、フランソワに、遺書を見せた。
結婚する直前に、故郷バイエルンの
ナポレオンの養子として、「弟」フランソワに宛てた……。
反ナポレオンの気風の強い、
だが、彼女は、それはしなかった。
もちろん、フランソワに見せてやりたいという、彼女の意思もあったろう。
だが、それ以上に、ウジェーヌの妻であった異母姉アウグステと、ゾフィーとの間には、強い絆があるということだ。
同母姉妹の、アウグステと、
もし、ゾフィーが、ヴァーサ公と別れたいと思ったのなら。
彼への執着を断ち切りたいと願ったのなら。
皇妃も、ゾフィーの異母姉だ。だが、長姉アウグステほど、親しくはない。第一、ゾフィーの夫、F・カールは、皇帝の息子、即ち、彼女の息子だ。
だめだ。皇妃には、頼れない。
だが、同じく異母姉で、長姉でもあるアウグステは、皇妃よりずっと、ゾフィーと親しい。
ゾフィーが、アウグステに泣きつくことは、充分に考えられる。
……
ウジェーヌの遺書をフランソワに見せた時、ゾフィーは、こう言っていた。
夫婦の愛。
それこそが今、彼女にとって、最も必要なものではなかったか。
彼女が、夫、
「でも、君はそれでいいの? 本当に、それでいいの?」
「ええ」
青ざめた顔で、ゾフィーは微笑んだ。
「でも、ヴァーサ公は、君を愛している。君だって……」
「あなたは、ヴァーサに言ったわ。オーストリアを傷つけてはならない、って」
「それは、」
フランソワの顔が赤らんだ。大きく息を吸い、何か言おうとした。
すぐに、しゅんと
「ごめん、ゾフィー。僕は、オーストリアを愛している。オーストリアの為なら、全世界に剣を向ける覚悟がある。フランス以外は。だが、君にそれを強要したことは、間違いだった」
「間違いじゃないわ。私は、オーストリアの大公妃よ」
「君は、君だ」
「私はね」
ゆっくりと、ゾフィーは言った。
「私は、一人でも男の子を産んだら、この国への義務は、果たしたことになると、考えていたの。生まれた子どもを宮廷に残して、出ていけばいい。そう、思っていたの。もし、彼が望むなら、ヴァーサと一緒に」
「彼は、今でもそれを、望んでいるよ」
優しい声だった。
ゾフィーは、首を横に振った。
「いいえ、フランツル。違ったの」
「違った? 何が?」
「出産前に想像していたのを、遥かに超えて、子どもは、可愛かった。彼が、愛しい。私は、
グスタフ・ヴァーサとの不義が公になれば、たとえそれが、フランツ・ヨーゼフ出産後のことであっても、ゾフィーがウィーン宮廷に残ることは、不可能だろう。
彼女は、宮廷から追放される。
永遠に。
「子どもを残して出ていく。あの子を誰かに託して、育ててもらう。そんなこと、私には、到底、できはしない」
「ゾフィー……」
「フランツル。あなたが……」
ふいに、その声が裏返った。
「あなたが、そんなに孤独で悲しいのに、私が、自分の子どもを裏切れるわけ、ないじゃないの!」
一息で言って、肩で大きく呼吸をした。
「ごめんなさい、フランツル。私は、
フランソワの顔が歪んだ。
「母上の悪口は、言わないで。……ゾフィー、君まで。お願いだ」
「そうよ。あなたは、いつも、そう言うの」
泣き笑いの表情を、ゾフィーは浮かべた。
「私は不思議に思うわ。いったいどうして、
「ゾフィー!」
ゾフィーの背を、フランソワは抱いた。長身を屈め、その肩に、顔を埋める。
眼の前に現れた金色の巻き毛を、ゾフィーは優しく撫でた。
「それでも、母上のことを悪く言うのは……いやだ」
くぐもった声が、主張した。
「だから、最初に謝ったでしょ? ごめんなさいって」
「……うん」
肩に押し付けた顔を、ぐりぐりとこすりつけてくる。
「子どもみたい」
ゾフィーは笑った。
「うん」
フランソワは答えた。
※
ゾフィーがフランソワに、ウジェーヌの遺書を見せたくだりは、
4章「ゾフィーが伝えたこと」
にございます。
※
フランソワとヴァーサ公の奥さんの関係(叔父と姪)、ゾフィー及び異母姉達とボアルネ家との関係、ややこしくて、申し訳ありません。系譜にしてみました。
恐れ入ります、例の如く、下にスクロールして下さい。
「8 ヴァーサ公の奥さん」
https://serimomo139.web.fc2.com/franz.html#vasa
(ページトップは
https://serimomo139.web.fc2.com/franz.html
)
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