世話焼きの皇妃カロリーネ


 フランソワが、皇妃カロリーネのサロンに呼ばれたのは、それからすぐのことだった。




 カロリーネは、皇帝の、4人目の妻だった。フランソワには、祖母に当たる。


 フランソワには、怖いものはない。

 いや、ある。

 たったひとつ。


 それは、年輩の女性だった。


 祖母とはいえ、カロリーネは、母、マリー・ルイーゼより、1歳年長なだけだ。しかし彼女は、紛れもなく、祖母だった。



 身近にいない母に代わり、皇妃は、いつも、なにくれとなく、フランソワの世話を焼いてくれた。彼女自身に子はいなかったから、フランソワを、自分の子どものように思っているらしかった。


 皇妃は、露骨に、フランソワに味方した。なりふり構わぬ肩入れは、好みの役者を贔屓するのと、似ていた。


 たとえば、プロケシュが、彼をギリシア王にと言った時、賛意を示したのは、皇妃カロリーネ祖母ただ一人だった。


 しかし、ギリシア正教会異教の国王に、厳格なカトリックである皇帝が、孫を即位させるわけがないのだ。

 同じテーブルに着いていた人たちは、それを知っていた。それで誰一人、プロケシュの意見に賛成しなかった。


 沈黙を破って、あえて賛意を表した皇妃は、ある意味、鈍感だともいえた。



 この、年輩の女性にありがちな鈍さが、フランソワは、苦手だった。周りが見えなくなってしまう身びいきが、時に、若者を苦しめる。


 そのうえ今は、本当の母、マリー・ルイーゼが、シェーンブルン宮殿に滞在しているのだ。

 一刻も長く、母の元にいたかった。


 それなのにわざわざ、ホーフブルク宮殿に呼びつける祖母は、やはり、少し鈍いといえた。




 サロンには、年輩の女性が、何人か集まっていた。

 時の流れで、メンバーには流動があったが、だいたい、いつも、同じような顔ぶれだった。


 フランソワは幼い頃(その当時の皇妃は、カロリーネ・アウグステの一人前の、マリア・ルドヴィカだった)、この女性たちには、苦しめられたものだった。


 幼い彼に、自分の膝へ来いと手を伸ばし、互いに牽制しあっていたこと。

 食べきれないというのに、お菓子を山のように押し付けられたこと。フランソワに虫歯があるのは、その弊害ではなかろうか。フランソワの母親は、遠いパルマにいた。母の愛の代わりに、彼女らは、甘味を押し付けた。


 その一方で、少しでも自分たちの意に染まないことをしたり言ったりすると、一斉射撃で言い返してくる。大したことではないのだ。子どもらしい、ささやかないたずらも、決して許されない。彼女らの攻撃は、全く、容赦がなかった。

 ……。



 「フランツェン!」

 叫んで、皇妃祖母近寄ってきた。

 もちろん、彼女に、一番先に、孫の相手をする権利がある。

「今日は貴方に、相談があるのよ!」

ざわざわと、取り巻きがざわめいた。

「ですからね、皆さん。しばらく、フランツェンと二人きりにして下さいませんこと?」


 おとなしい皇妃には、上出来といえた。

 少なくともフランソワは、一斉射撃に備えなくても済む。

 「お呼びに預かって、光栄です、皇妃さま」

 フランソワは、頬を赤らめて、祖母に挨拶をした。



 人と話す時、頬が赤くなってしまうのは、フランソワの癖だった。これは、どうやら、母親譲りらしかった。

 にもかかわらず、祖母は、うっとりと、「孫」を見つめた。


「まあ、お座りなさいな、フランツェン。アーモンド・ミルクはいかが?」


アーモンド・ミルクは、アーモンドを砕いてミルクに浸し、絞ってろ過した飲み物だ。


「いえ、結構です、皇妃さま」

「そうね。今日は暑いから、レモン・スカッシュがいいわね」

「はい、皇妃様」


 本当は、何も飲みたくなかった。

 一刻も早く、退席したかった。母の待つ、シェーンブルンへ帰りたい。


 しかし、祖母は気が付かない。

「お菓子もどうぞ。ほら、グーゲルフプフ(鉢型のカステラ)はどう? ブリオッシュもあるわよ」

「ありがとうございます」


 無碍に断るのも、申し訳がない気がした。

 遠慮がちに言って、腰を下ろした。


 祖母は、喜色満面で、菓子の乗った皿を押し付けてくる。

 久しぶりで、虫歯が、ずきんと痛んだ。



「軍務の方は、どうですか?」

改まって、皇妃が尋ねる。


「はい。精進しております」

「あなたは、勇敢ですものね。それに、白い軍服が、とてもよくお似合い。あら、ズボンに、銀の下げ飾りがついたのね」


 祖母は、ほれぼれと孫の姿を眺めた。

 ズボンの腰から下げられる、銀色の、レースのような飾りは、将校であることを示すものだ。

「……」

 フランソワは、ますます顔を赤らめた。



「フランツェン。あなた、アメーリエ・シュテファニーをご存知かしら」

ひとしきり、軍務の話を聞き出してから、カロリーネ・アウグステ祖母は尋ねた。

「バーデン大公女ですね!」

言ってしまってから、しまった、と思った。



 バーデン大公女、アメーリエ。

 彼女の母親、ルイーゼは、ナポレオンの養女だった。



 皇帝になってすぐ、ナポレオンは、バーデン大公カールと、同盟を結ぶ必要にかられた。


 美女と評判の大公の娘たちは、錚々たる王族と結婚していた。ロシア皇帝、(再婚だったが)バイエルン王、(後に位を追われてしまったが)スウェーデン王。大公はまた、ブラウンシュヴァイク公やヘッセン大公の元にも娘を嫁がせていた。(※1)


 特に、露骨に敵意を見せるロシアとスウェーデンには、警戒が必要だった。もちろん、ブラウンシュヴァイク公にも。


 これら反ナポレオン派の王家とは、バーデン家を通じて絡め手から、縁続きになっておく必要がある。


 しかし、ちょうど、年齢が釣り合う女性がいなかった。

 妹たちはとっくに片付いていたし、(当時の)妻、ジョセフィーヌの連れ子、オルタンスも、ナポレオンの弟、ルイと結婚していた。


 そこで、ナポレオンは、妻のジョセフィーヌの親族に、目を向けた。

 正確には、ジョセフィーヌの先夫、アレクサンドル・ド・ボアルネの親族である。


 ジョセフィーヌの先夫、アレクサンドルは、貴族の出身だった。彼は、革命のギロチンの犠牲となった。未亡人となったジョセフィーヌは、青年将校だった、ナポレオンの求愛を受け容れたのだ。



 バーデン大公の妻として、アレクサンドルジョセフィーヌの先夫の、従兄の娘、ステファニーに白羽の矢が立った。

 直ちにステファニーは、ナポレオンの養女になった。そして、ナポレオンの娘として、バーデン大公カールに嫁いだ。


 二人の間に産まれたのが、アメーリエである。


 つまり、アメーリエは、フランソワの、姪に当たるのだ。彼女は、ナポレオンの、養女の娘だから。



 こうしたことは、少しずつ、書籍から、あるいは、人の噂話から、情報を集めた。

 ナポレオンの親族について、フランソワは、表向き、何も知らされていない。バーデン大公女アメーリエとの関係も、家庭教師たちは、何も、話そうとしなかった。




 フランソワは、用心深く、祖母の顔色を窺った。

 その顔は、穏やかで優しげだった。

 いつもと変わらぬ、祖母の顔だった。


「やっぱり、知っていたのね。あなたのお祖父様皇帝は、きっと知らないだろうっておっしゃってたけど、そんなわけ、ないわよね!」

単純に、喜んでいる。


 ほっと、フランソワは、胸を撫で下ろした。


「そのバーデン大公女アメーリエの嫁ぎ先を探すよう、お姉さまに申しつかったの」

「皇妃様の、お姉さまが?」

「ええ。亡くなった、姉の夫(ナポレオンの養子、ウジェーヌ・ボアルネ)の、縁続きなのよ、バーデン大公女アメーリエは」


 世話好きの祖母皇妃である。きっとそこを見込んで、彼女の姉は、声を掛けたのだろう。


「それでね」

皇妃皇妃が、膝を乗り出した。いかにも、内緒事、と言った風に、声をひそめる。

「グスタフ・ヴァーサ公なんか、どうかしら」


「ヴァーサ公!」

思わず、フランソワは、声を上げた。

「僕の上官ですか?」

皇妃の言葉を、鸚鵡返す。


 祖母は、鷹揚に頷いた。


「ええ。2年前に、オランダ王女とのお話が破談になってしまって、とてもお気の毒だったわ。でも、バーデン大公女なら、それに見合うと思うの。ふたりは従兄妹同士だから、きっと、惹かれあうものがあるはずよ!」



 ヴァーサ公の母フリーデリケと、アメーリエの父バーデン公は、姉弟である。


 スウェーデンを追われた王妃フリーデリケは、子どもたちを連れて実家のバーデンへ逃れたので、アメーリアは幼いころ、年上の従兄と顔を合わせている筈だ。



 「従兄妹……」

 ヴァーサ公の、もう一人の従妹の顔が、フランソワの頭に浮かんだ。



 ゾフィーの母は、ヴァーサ公の母とアメーリエの父の、姉である。

 ヴァーサ公、ゾフィー大公妃、そして、アメーリアは、従兄妹同士なのだ。


 ただし、今目の前にいる皇妃は、この関係に当てはまらない。彼女は、ゾフィーの姉ではあるが、異母姉である為だ。



 皇妃が首を傾げた。

「子どもの頃に会ったきりだと、アメーリアは、ヴァーサ公のこと、よく覚えていないと思うの。私がしっかりしなければ。ねえ、フランツェン。グスタフ・ヴァーサ公って、どんな方かしら」


「とても……とても、いい人です」

「いい人? もっと詳しく聞かせて」

「優しくて、頼りがいがあって、素晴らしく有能で……僕は、彼を、尊敬しています」

「なら、バーデン大公女アメーリエのお相手にふさわしいといえるわね?」

「それは、どうでしょう……」



 姪とはいえ、フランソワは、アメーリエ大公女には、一度も会ったことがない。そして、その母であるナポレオンの養女、即ち、自分の「姉」にも、恐らく、一度も。

 もはや、他人といえた。

 顔もろくに知らない「姪」に、上官を盗られるのは、心外だった。不本意ですらある。



 「あら!」

弾かれたように、祖母は笑い出した。

「あなた、出し惜しみをしているようよ! ヴァーサ公のことを、うんと褒めたいのに、できないでいるみたい!」


「……」

フランソワは、言葉に詰まった。

その通りだったからだ。

鈍感な祖母に、図星を言い当てられたのは、初めてのことだった。


「ヴァーサ公は、とてもいい人です」

感情を抑え、彼は、繰り返した。


「じゃ、このお話、進めようかしら」

祖母は、膝を乗り出した。

「実は、アメーリアの結婚には、姉が一番、乗り気なのよ。考えてもみて? 二人の両親の結婚には、姉の夫ウジェーヌが大きな役割を果たしたの。だって、アメーリアの母がバーデン公と結婚できたのは、ウジェーヌのお陰よ! 彼女がナポレオンの養女になれたのは、ウジェーヌがいたからこそだもの。姉はね。ウジェーヌと血の繋がった娘の婚姻に、自分が一役買いたいのよ。亡くなった夫君ウジェーヌへの、忠実な思い出の為に!」(※2)


「……お祖母様」

際限もなく続く皇妃の話を、フランソワは遮った。

「なあに、フランツェン」

甘い、蕩けそうな笑顔を、祖母は、孫に向けた。

「いえ、なんでもありません」

「まあ、変な子」

祖母は、笑った。


 ヴァーサ公……尊敬する上官……が、本当に好きなのは、……フランソワは、顔を赤らめた……愛しているのは、ゾフィー大公妃だ。

 ゾフィーだって、彼を愛していることを、フランソワは知っている。


 フランソワは、彼女を守ると誓った。

 守ると。

 フランツ・ヨーゼフ……バニラアイスのような、あのかわいらしい赤ちゃんの為に。

 オーストリアの未来の為に。


 でも、どうやって? どうすればいい?

 何が、正しい答なのだ?



「フランツェン?」

初めて、皇妃は、フランソワの、深刻な顔に気がついた。

「どうしたの、フランツェン」

「いえ」

とっさにフランツは答えた。

「確か、バーデン大公女アメーリアは、僕と同じ年齢だったな、と思ったものですから」

「あら! じゃ、彼女って、19歳!? いいえ、早すぎることはないわ。女の子ですもの。でも……」


 急に彼女は、いたずらっ子のような顔になった。

「あなたは、まだまだですよ、フランツェン。結婚なんて、してはいけません。どうか今暫くの間、私と皇帝の、可愛い孫……そして、第二の息子……でいて頂戴ね」


「はい、皇妃様」

今度こそ、しんから頬を火照らせて、フランソワは答えた。








*~*~*~*~*~*~*~*~

※1

バーデン大公家の系譜が、ホームページにあります。

https://serimomo139.web.fc2.com/franz.html#baden


(ページトップは

https://serimomo139.web.fc2.com/franz.html

恐れ入りますが、下にスクロール頂き、「11 バーデン大公家」までお願い致します。)




※2

ウジェーヌ・ボアルネについては、4章「ゾフィーが伝えたこと」に記載がございます

https://kakuyomu.jp/works/1177354054885142129/episodes/1177354054886717228







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