ゾフィー大公妃との関係 1
後書きに代えて、何人かの方からご質問を頂きました、ゾフィー大公妃との恋、そして、マクシミリアンの父親について、私なりの見解をお伝えしたく思います。
二人が、初めて会ったのは、ライヒシュタット公13歳、ゾフィー大公妃19歳、ゾフィーがオーストリアの、フランツ・カール大公に輿入れて来た時のことでした。翌年、ライヒシュタット公は声変わりをし、その次の年の夏、母の背丈に並びます。この辺から、ゾフィーは、頻繁に彼を、自分のエスコート役に指名するようになります。
ライヒシュタット公の病状がいよいよ悪くなり、シェーンブルン宮殿に移ると、ゾフィーは、自分の部屋(ナポレオンがかつて使っていた部屋でした)を彼に提供し、また、座り心地の良い椅子を特注したりしています。
こうした二人に、宮廷の人々が好奇の目を向けないわけがなく、噂が立ちます。けれど、ゾフィーもライヒシュタット公も、一切、取り繕おうとしませんでした。さらに、身重のゾフィーは、堂々と甥を見舞います。人々は、お腹の子の父を、あれこれ詮索し始めます。
ライヒシュタット公の死の間際に生まれたマクシミリアン。彼は、ナポレオン3世(ナポレオンの甥)に唆される形でメキシコに渡り、メキシコ王に即位します。やがて自由主義者による反乱が起こり、フランスは、早々に、メキシコから手を引いてしまいます。マクシミリアンは、捕えられ、銃殺されてしまいます。
この、ナポレオン3世との因縁から、いよいよマクシミリアンは、ライヒシュタット公の子どもだと、囁かれるようになりました。
マクシミリアンは、ライヒシュタット公の子ではないか。『帝冠の恋』(須賀しのぶ 徳間書店)に基づく、ご質問を頂きました。
私も、2章のアップロードが終わりかけた頃、この本を読んでみました。ゾフィー大公妃を主役に据えた、ライヒシュタット公との恋愛譚です。大人の女性の恋だと思いました。同じ時代の同じ宮廷を描いた先行作品に、敬意を捧げます。
一方で、私は、恋愛だけではなく、政治的な立場も含め、全てをライヒシュタット公の側に立って描きました。その為、私の考えは、『帝冠の恋』のゾフィー目線とは、違ってきます。
私は、ライヒシュタット公とゾフィーの間には恋愛関係はなかった、としました。そう考えるようになったのには、いくつか、理由があります。それを、以下に述べます。
まずは、ゾフィーの側です。
●マクシミリアンの後の出産
この後、ゾフィー大公妃は、4人の子どもを産んでいます(うち一人は死産、一人は夭折)。どの本の著者か失念しましたが、妻の不倫があったのなら、その後に4人も子どもはできないだろうと述べておられました。私は人の夫になったことがないので、決定的な理由とはしませんが、傍証として、上げておきます。
●秘跡を勧める説得
ライヒシュタット公とゾフィーが、2人だけになったのは、30分ほどです。部屋から出てきたゾフィーは、待機していたモルに、「普通の聖餐だと彼に信じさせるのは、とても難しかった」というような意味のことを言っています(“DIE LETZTEN TAGE DES HERZOG VON REICHSTADT”)。恋愛感情があるのなら、ミッションの難しさを嘆くよりも、状況の辛さに、涙するのでは?
●死に対するコメント
ライヒシュタット公没後、モルがゾフィー大公妃に挨拶に行った時、彼女はモルに、「彼(ラ公)が、いつも私に見せてくれた礼儀正しさには、本当に感動させられた」と述べています。「これは、恋する女のセリフではない」とは、ANDRÉ CASTELOTの感想です(“NAPOLEON’S SON”)。私も、ライヒシュタット公の「礼儀正しさ」は、恋愛感情とは遠いものに感じます。
また、彼女は、マリー・ルイーゼに弔問の手紙を書いていますが、そこには、
「私が心から愛する二人を、私から奪い去るのには、一晩あれば十分でした!」
(ゾフィーの母方の祖母が、ライヒシュタット公と同じ晩に亡くなっています)
とあります。ここにも、前述のセリフと同種の冷たさがあると、ANDRÉ CASTELOTは、述べています(同書)。私も、祖母と恋人(しかも、まだ21歳での非業の死)を、同列に並べて述べているとしたら、強い違和感を感じます。
●息子マクシミリアンへの手紙
そして、時は流れ、息子マクシミリアンがメキシコへ行く際に、ゾフィーが彼に打った最後の電報です。
「ご機嫌よう、私たちの――パパと私の――祝福と祈りと涙がお前のお供をします。神の御加護があらんことを! お前にもう会うことができない。ここ故郷の大地で最後に一言。達者にお暮らし! 私たちは深い悲しみの心で繰り返し繰り返し祝福を贈ります」
(『イカロスの失墜』菊池良生)
短い電報で、ゾフィーは二度、「私たち」を用いて、自分と夫の悲しみを伝えています。マクシミリアンは、夫の本当の子だからこそ出てきた、自然な悲しみの発露のように、私には読めました。
次にライヒシュタット公の側です。
●呼び名
ライヒシュタット公はゾフィーのことを「ママン(Mother)」と呼び、お返しにゾフィーは「私の大事なおじいちゃん(dear,kind old man)」と呼んでいたといいます(“NAPOLEON'S SON ”CLARA TSCHUDI)。
ゾフィーの方は、意趣返しでしょう。他人の女性(ましてたった6歳しか年上でない)を、「お母さん」などと呼んではいけません。
そして、ライヒシュタット公の方は……。
お母さん。うーん。
とはいえ、「ママン」は、ライヒシュタット公の、女性に対する最高の敬称で間違いありません。なにしろ彼は、筋金入りのマ〇コンですから。
ところで、
「さようなら、私の大切なフランツ、心から貴方を抱きしめます。さようなら。心から愛しています。貴方の奥様によろしく」(『マリー・ルイーゼ』塚本哲也)
という、ゾフィーからライヒシュタット公の手紙があります。
「貴方の奥様」とは、言うまでもなく、ディートリヒシュタイン先生のことです。ライヒシュタット公は、モーリツ・エステルハージとの間では、「心配性の婆さん」と呼んでいました(9章「愛の往復書簡」)。
塚本氏は、この手紙について、当時の人々はよく手紙を書いたから、大げさな表現を鵜呑みにしてはいけない、としつつも、「その(ゾフィーの)優しさは正常の域を超えている」とされています。(同書)
その日、ゾフィーと出掛けた観劇か音楽会が終わると、ライヒシュタット公は、「遅くなると、僕の妻(ディ先生)がうるさいから」と言って、ゾフィーと別れ、自分の住居部分へ帰っていったのでしょう。
私は、ここに、ライヒシュタット公のゾフィーへの牽制を見た気がしました。(ただ、お話では、嫌味にならないように、ゾフィーが言い出したことにしました。4章「奥様?」は、数少ないライヒシュタット公目線ですので)
実際はわかりません。けれど、私の考えでは、彼から彼女の方へ踏み切ることは、決してなかったと思います。
●ゾフィーを避けたこと
1831年6月、正式に司令官として、ライヒシュタット公の軍務は始まります。その直前の、春。ウィーン勤務の内示は出ていたのでしょうか。それとも、どこに赴任になるか未だわからなくて、苛々していた時期でしょうか。
ライヒシュタット公は、祖父の皇帝とゾフィー大公妃を避けていたことがありました。それは、「独立の精神から(out of spirits of independence)」ということです。(“NAPOLEON’S SON”ANDRÉ CASTELOT)
実際の独立を前に、まるで、子どもが、自分の両親を遠ざけ、いきがっているように感じられます。皇帝は、実際に彼にとって、「第二の父親」でした。その皇帝と同列に、彼から避けられたゾフィー。彼女には、やはりどうしても、ライヒシュタット公にとっての「恋人」より、「母親」のイメージがつきまといます。
●プロケシュの見解
ライヒシュタット公没後、ゾフィー大公妃は、彼の「姉」を名乗りたい、と言ったそうです。ひょっとして、彼との噂が、あまりに喧しかったのかもしれません。あるいは、彼に、「僕のママン」と呼ばれていたことを、誰かに(夫に?)揶揄されたとか?
これに対し、ライヒシュタット公の親友プロケシュは、ゾフィー大公妃は気持ちの良い女性だとしながらも、彼女は正しくない、彼は彼女に、決して心を許していなかったからだ、というような意味のことを言っています。ライヒシュタット公がプロケシュに語ったイメージによると、彼にとって彼女は
「穏やかな日々の楽しい仲間、中庭の砂漠にあるオアシスであり、彼女は彼の心を潤すことなく、彼の目を惹く」(傍点:せりもも)
ということです。(“Mes relations avec le duc de Reichstadt”)
以上の根拠と、あとは、一種の勘のようなもので、私は、マクシミリアンはゾフィーの子ではなかったと結論付けました。
一方、宮廷恋愛そのものを否定する気にはなれませんでした。
それで、ゾフィーに、別の恋のお相手を配したのです。
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