アレネンバーグ城の密談 1



 スイスのアレネンバーグ城は、城と呼ぶには気がひけるほど、小さくかわいらしい。背後に礼拝堂を従え、前庭は、きれいに手入れされている。


 丘の上に聳える城からは、湖が見下ろせる。だが、アレネンバーグの一番美しい季節は、終わっていた。今は、暗い森が横たわり、灰色の空の下を、白い鳥が、寒々と飛んでいるのが見えるばかりだ。



 ディートリヒシュタイン侯爵……ライヒシュタット公の家庭教師の、兄……は、ためらいもなく、この城に足を踏み入れた。


 彼は、年配の女性……彼よりも遥かに若いが……に、迎え入れられた。この寒いのに、体の線がよく見える、フランス風のドレスを身にまとっている。

 久々に侯爵は、目のやり場に困った。


 美しく着飾った婦人は、優雅に膝を折った。

 「よくいらっしゃいました、ディートリヒシュタイン侯爵」

「はじめまして、オルタンス妃殿下」

「あら、妃殿下はおやめになって。いつの話かしら」


オルタンス・ボアルネ(ナポレオンの養女。フランソアの義理の姉。ナポレオン3世の母)は、あでやかに微笑んだ。彼女が、オランダ王の妃であったのは、もう、四半世紀も前のことだ。



「ディートリヒシュタイン侯爵」

部屋の奥にいた男が立ち上がった。黒っぽい髪を短く刈り込んだ、穏やかな顔立ちの、中年の男だ。


「おや、ボンベル大使ではありませんか」

侯爵は意外に思った。ボンベルは、在スイスの、オーストリア大使だ。

「ということは?」

オルタンスを顧みる。

オルタンスは微笑んだ。

「まだ何も、決めておりません。それにお忘れのようですけど、ボンベル伯爵は、フランス人ですわ」

「フランスを逃れた、フランス人だ」

きっぱりと、ディートリヒシュタイン侯爵は言い放った。



 フランス革命の初期。

 王党派だったボンベルの父は、一家で、オーストリアに亡命した。息子のボンベルは、後にオーストリア軍に入っている。

 一時期、彼はフランスに帰国していたが、再びオーストリアに戻ってきた。そして今は、スイスの大使に任命されている。



 「ボンベル大使は、我々の味方だ。我々、フランスの!」

 騒々しい声がした。

 グラスを2つ持った男が、部屋に入ってきた。有無を言わさず、ディートリヒシュタイン侯爵に押し付ける。

「これはこれは、モントロン将軍。失礼な疑いは晴れましたかな」


 モントロンは、最後までナポレオンに付き従っていた側近中の側近である。ナポレオンの遺言の、口述部分を筆記したのも、彼である。また、ナポレオンの遺言執行人にも指名されていた。


「失礼な疑い?」

モントロンは眉を上げた。

「ご存知なければよろしいですよ」

大真面目な顔で、ディートリヒシュタイン侯爵は応えた。



 ナポレオンは毒殺されたのだという疑惑が、しつこく蔓延っている。

 その実行犯として、モントロン自身も、やり玉に上がっていた。

 動機は嫉妬。

 セント・ヘレナに同行してきた彼の妻が、ナポレオンの子を産んだからである。ジョゼフィーヌと名付けられたその子は、わずか1年半しか生きられなかった。

 いずれにせよ、モントロンは、帝王の遺言執行人という職務を、忠実に果たしていた。もしくは、果たそうとしていた。



 不思議そうに、モントロンは首を傾げた。

「我々は、陛下の遺言通り、ローマ王が16歳になった時、陛下の遺品を、彼に届けようとした。しかし、遺品は、フランスのオーストリア大使館から、一歩も外へ、出してもらえなかった。望遠鏡や時計、嗅ぎタバコ入れなど、父から息子への、個人的な思い出の品ばかりだというのに。」(※1)


じろりとディートリヒシュタイン侯爵を見やった。

「しかたがないから、次善の策として、ローマの皇太后(ナポレオンの母、レティシア)の元へお届けしたのだ。疑いなどかけられるいわれは……」



 その時、再び、来客が訪れた。

 侍従が連れてきたのは、意外な人物だった。

「プロケシュ少佐! なぜここに!」

思わず、ディートリヒシュタイン侯爵は叫んだ。

「君は、ボローニャにいるはずじゃないか!?」


「全ては、彼の発案なんですよ」

柔らかくとりなしたのは、オルタンスだった。

「まさか!」

ディートリヒシュタイン侯爵は驚愕した。



 オルタンス……最後までナポレオンに忠実だった、ナポレオンの養女…… と、

プロケシュ……ライヒシュタット公の親友……。

 ボナパルト派の最右翼の彼女と、オーストリア将校の間に、いったい、どのような繋がりがあるというのか。



 「ふふふ。驚いてる」

 人の悪い笑い声が聞こえた。プロケシュの背後から、ちんちくりんな男装姿の女性が、出てきた。

 露骨にオルタンスが、眉を顰めた。

「これ、エリザ・ナポレオーネ! お客様をからかうものではありません」

「はあい、叔母様」


「そうなんです、ディートリヒシュタイン侯爵。僕は、殿下の代わりに、殿下の従姉エリザ・ナポレオーネさんと会って……」



 ……「プリンスは、ナポレオンに心酔しています」

プロケシュの言葉に、エリザ・ナポレオーネは、目を輝かせた。

 ……。(8章「「プロケシュの誠意/切り裂き伯爵の文才」)(※2)



「なるほど。プロケシュ少佐、君は、ナポレオーネ・カメラータ伯爵夫人のなかだちで、オルタンス殿と結びついたわけか。これは、もちろん、ライヒシュタット公絡みの会見なのだな?」

 猜疑心に富んだ眼差しでプロケシュを見つめ、ディートリヒシュタイン侯爵は尋ねた。


 プロケシュは大きく頷いた。

「侯爵、あなたは、プリンスの家庭教師、モーリツ・ディートリヒシュタイン伯爵の長兄兄上だ。伯爵はあなたを尊敬し、プリンスのことを、なにくれとなく、相談しておられますね?」



 フランス7月革命の時も、ナポレオーネがプリンスに接触してきた時も、家庭教師ディートリヒシュタイン伯爵が真っ先に相談したのは、兄の侯爵だった……。(8章「兄の侯爵」)



「プリンスの家庭教師である彼には、監視の目がある。ナポレオンの親族との接触が知れれば、疑惑の種となるでしょう。その点、兄のあなたなら、安心だ、フランツ・ヨーゼフ・ディートリヒシュタイン侯爵。ディートリヒシュタイン家の家長であるあなたは、失礼ながら、弟さんより、ずっと御身分が高い。いろいろもみ消すことも、可能でしょう」


「……ここで会見が持たれることは、弟も、知っているのか?」

「まさか。あなたの頭越しにものごとを企てたりしません。伯爵には、ウィーンにお帰りになったら、あなたの口から、お話し下さい」

「……気遣い、感謝する」

横柄に、侯爵は応えた。


 「ボンベル大使とモントロン伯爵ナポレオンの遺言執行人は、私がお呼びしました」

 オルタンスが付け加えた。

 にっこりと笑った。

「これで、全員揃いました」








・~・~・~・~・~・~・~・~・~・


※1 大使館に持ち込まれたナポレオンの遺品

パリの、オーストリア大使館に持ち込まれた遺品は、そこからオーストリア国内へ運び込むことが許されませんでした。

オーストリア大使、アポニーの辟易する様子を、5章「ナポレオンの遺品 1、2」で、アシュラが見ています。




※2 エリザ・ナポレオーネ

例の、男装の麗人、というには、ちんちくりん過ぎる、ナポレオンの姪です。つまり、フランソワの従姉です。

ナポレオーネは、何とか話しかけようと、ウィーンの街なかで、フランソワを尾行しています。また、彼女は、彼の手に、キスをしています。



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