ゾフィー大公妃のお願い
「塩風呂はもう、いいでしょう」
マルファッティが言うと、フランソワは、きょとんとした。
「え? だって、皮膚を強くしなければ、肺や肝臓は良くならないのでしょう? 塩風呂は、皮膚を強くするのに、効果があると、先生、おっしゃったじゃないですか」
「肝臓は、いい状態ですよ」
言ってから、問われてもいないのに、医師は付け足した。
「肺も、悪くありません」
納得ができない、いうふうに、フランソワは言い返した。
「だって先生は前に、言いましたよ? 僕の不調は、皮膚の過敏からくる、肝臓の病だって!」
「皮膚の状態は、改善されました」
「でも、首のあざは、治っていない」
「遺伝性の潰瘍ですからね」
「本当に?」
フランソワが言い、医師は、目をぱちぱちさせた。
さらに、プリンスは続けた。
「成長期が終わり、体のバランスが整えば、次第に体調は良くなるって、先生、言いましたよね。僕はもう、21歳になりました。成長期は終わったはずです」
「前にも言いましたが、今回の不調は、伝染性のカタルです」
「右の肩が、痛いんですが」
「それは、リウマチですね」
「……リウマチ。僕は、そんな年寄りじゃない!」
医師は、患者の主張を無視した。
「今度は、山羊の乳を試してみましょう」
「山羊の乳ですって!」
フランソワは目を剥いた。
「今まで、毎日、牛乳を、炭酸水で割ったものを、飲んでいたんですよ? あんなにまずいものを、毎日……。牛の次は、山羊ですか!」
再び、患者の抗議を、医師は却下した。
「それと、規則正しい静かな生活」
「遠乗りに行きたいです」
「ダメです」
「劇場に行きたい」
「もう少し、我慢なさい」
「いったいいつになったら、僕は、軍務に戻れるんですか!」
激した声が叫んだ。
マルファッティは、ため息をついた。
「プリンス。あなたは、普段は、愛想の良い、本当に素敵なお人柄です。しかし、患者としては、私はあなたに、我慢がならない!」
「僕も、知的な人が大好きです。ですが、ころころ変わる、医者の気まぐれには、付き合いきれない!」
プリンスがやり返した。
*
「結局、マルファッティは、ヤブ医者なんですよ。それは、確かです」
憤慨して、医師は、帰っていった。
こちらも憤懣冷めやらぬフランソワに、水の入ったコップを渡し、アシュラがなだめている。
「彼が勧めたポンス酒は、ベートーヴェンの死期を早めたし」
「前にもそんなことを言ってたな」
「ですが、マルファッティのことは、全面的なヤブだとは、思えません」
「ヤブ以外のなんだというんだ?」
「悪意です。あるいは謀略。もっと言えば、暗殺計画……」
フランソワはため息を吐いた。
「確かに、療養生活は息が詰まる。動いていないと、僕は死んでしまいそうだよ、アシュラ」
「療養は必要だと思いますよ。そこだけは、マルファッティに賛成です。ですが、彼はなぜ、肺の病と言わないのでしょう。
「それは僕が、肺の病ではないからだ」
空になったコップを、アシュラに手渡す。
目を伏せ、続けた。
「僕はね。きっと、父上と同じ病で死ぬんだ。……肝臓の病でね」
ナポレオンの死因は、胃癌だったともいう。ここウィーンでは、広く、肝臓の病と囁かれていた。
「死ぬなんて、おっしゃらないで下さい」
ぴしゃりと、アシュラが叱りつけた。
「もう少し、具合が良くなったら。そしたら、空気の良いところに行けるよう、なんとか頑張ってみます」
「お前に何ができる? 無駄だよ。ウィーンから出られるものか」
「正統法ではありません、もちろん。私に、そんな力もない。でも、いざとなったら、あなたをさらって逃げますから」
フランソワは、一瞬、きょとんとした。それから、爆笑した。
シェーンブルンへ来てから、初めて、声を出して笑った。
「本気ですよ」
むっとして、アシュラは言い返した。
*
コレラの猛威を避け、宮廷は依然、シェーンブルンへ避難していた。街の中心部を離れた離宮、シェーンブルンでは、穏やかな時間が流れていく。
退屈しているのは、フランソワだけではなかった。
「フランツル。私のおじいさん!」
叔母のゾフィー大公妃が、ひっきりなしに、フランソワの部屋を訪れる。
「私のおじいさん」というのは、彼女がフランソワにつけたあだ名だ。フランソワが彼女のことを「僕のママン」と呼ぶので、その意趣返しである。
「フランツル、あなた、時間があるわよね? 私、あなたにお願いがあるの」
「なんなりと」
フランソワの傍らに、アシュラがよってきた。さも重大そうに彼の耳に口を寄せ、囁く。
「およしなさい。御婦人のお願いなんて、ろくなものがありません」
ゾフィーが来ると、不思議と、フランソワは元気になる。
枯れていた声にも張りが出て、顔色もよく見える。動作も機敏だ。
だが、彼女が帰ると、彼は、ぐったりと、寝椅子に倒れ込んでしまう。
人と会うのは、まだ、負担なのだ。
「あら、その方、どなた?」
めざとく、ゾフィー大公妃が見咎める。
「モル男爵。新しい僕の付き人だよ。よく気のつく、親切な男ですよ」
愛想よく、フランソワが答えている。
……俺とは正反対だな。
そう思いながら、アシュラは腰を屈めた。
「よろしくね、モル男爵」
ゾフィー大公妃は、にっこり笑った。
「でも、大事な話があるの。ここからは、フランツルと二人きりにしてくれるかしら」
そう言われては、アシュラとしても、同席するわけにはいかない。
……本物のモルの評判を下げたら、気の毒だからな。
慇懃に頭を下げ、アシュラは退出した。
二人きりになると、ゾフィーは、フランソワに向き直った。
彼は、回復に向かっている。本人がそう主張しているし、医師も、肯定している。
「ねえ、フランツル。もうすぐ皇帝の誕生日でしょう? あなた、何かプレゼントを考えていて?」
「
「あのね。私にいい考えがあるの」
「貴女の考えは、大抵、いい考えですよ」
「まあ! お上手を言えるようになったのね!」
それでも満足そうに、ゾフィーは笑った。
「でも、これは、本当にいい考えだわ。私、皇帝の誕生日に、絵をお贈りしたいと考えているの」
「絵?」
「皇帝の3人の孫の絵よ!」
フランツ帝には、この時点で、ウィーン宮廷に、3人の孫がいた。
次男、F・カール大公の子、ゾフィーの産んだ、フランツ・ヨーゼフと。彼は、1歳になったばかりだ。
サレルノ公レオポルドの妻となった娘、マリア・クレメンティーネの産んだ、マリー・カロリーヌ。9歳のおしゃまな女の子だ。
そして、長女マリー・ルイーゼの子、フランソワである。(もちろん、
他に、マリー・ルイーゼの妹、故レオポルディーネの産んだ子ども達がいるが、彼らは、遠い海の向こう、ブラジルにいる。
「画家は、ヨハン・エンデルに頼むつもりよ。彼は、モデルが必要なんですって。だから、フランツ・ヨーゼフとマリー・カロリーヌも、もちろん、一緒にね!」
ゾフィーは張り切っている。
つまり、幼い二人の従妹弟(うち1人は、歩き出したばかりの幼児だ)と一緒に、絵のモデルになれというのだ。
フランソワは、ためらった。
「いや、僕は……。フランツ・ヨーゼフとマリー・カロリーヌ、二人だけで充分だと思うよ」
「ダメよ! あなたがいなくちゃ」
「しかし僕は、育ちすぎだ」
「いくつになっても、孫は孫よ。あなたは、皇帝の、初孫でしょ?」
「それはそうだけど……」
「それに……」
ゾフィーは、少しためらい、続けた。
「大人になってから、あなた、まともな肖像画の一枚も描かせていないでしょ? この春に独立した時も、結局、描かせなかったし」
「肖像画なら、何枚か描かせましたよ……」
「水彩画ばかりじゃない!」
ゾフィーが決めつけた。
「町の肖像画家に描かせた絵ばかりだわ! どなたに差し上げたのか知らないけど、そんなの、ダメよ。あなた、皇帝の孫なのよ!」
フランソワが自分の肖像画を贈ったのは、
画家のダッフィンガーは、何枚か、追加で描いているが、それらは、彼には内緒で(もちろん、政府にも)、フランスやイタリアへ送られている。
その辺りの事情を、ゾフィーは把握していない。
彼女は、
それも、何枚も。
フランソワは肩を竦めた。
「ゾフィーが嫌なら、もう、ダッフィンガーの所へは行かないよ」
「そう?」
まだ、ゾフィーはお冠だ。
さらに、フランソワは、譲歩した。
「わかった。モデルの件、引き受けたよ」
「まあ、嬉しい!」
途端に、ゾフィーの機嫌が直った。
一歩下がり、値踏みするようにフランソワを眺める。
「フランツ・ヨーゼフをお膝に抱いて、マリー・カロリーヌの肩を寄せる感じでどうかしら」
「……努力します」
「とてもいい絵になると思うわ! フランツ・ヨーゼフとマリー・カロリーヌの二人は、天使をイメージするつもりだから、きっと、白い服になると思うの。だからって、フランツル、あなた、軍服はダメよ」
オーストリアの軍服は、白である。
「僕だけ、皇族の正装をするの?」
再び、フランソワの腰が引け気味になる。
ゾフィーは首を横に振った。
「いいえ。茶系のフロックがいいわ。掛け衿かタイに、黒を使って……。子どもたちの差し色を考えなくちゃだけど、それは、画家の先生がなんとかしてくれると思うの。ああ、そうだ。髪! 髪は、きちんとセットして来てね」
満足そうに頷いた。
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