断乳戦争 2
*
……「ローマ王は、断乳すべきです。それなのに、モンテスキュー伯爵夫人は、皇帝からじきじきにご下命あるまで、断乳は許さないと言うんです。」
コルヴィサール医師が手紙に書いてきた。
諸王の集まりに出席する皇妃に同行して、モンテベッロ公爵夫人アントワネットもドレスデンに来ていた。その彼女宛てに、コルヴィサールが愚痴をこぼす。
……「まったく、ローマ王が懐いているせいで、モンテスキュー伯爵夫人が横暴になってしまって」
コルヴィサールとアントワネットは、皇妃のお産の時に、意気投合していた。
ローマ王は、1歳3ヶ月に入っていた。パリでは、そろそろ断乳すべきだという医師コルヴィサールと、皇帝夫妻がいない時に勝手な真似は許しません、という養育係のモンテスキュー伯爵夫人が、鋭く対立していた。
ローマ王の乳母は、パリのワイン商の妻だった。24歳と若く、母乳もまだ、たっぷりと出ていた。
……「このままでは、ローマ王の歯並びが心配です」
いつまでも乳母の乳房を吸っていれば、前歯の並びがおかしくなりかねない。
そんな風にコルヴィサールは心配していた。だが本当は、最近力をつけてきたモンテスキュー伯爵夫人への対抗心からなのは明らかだった。
そういうことなら、アントワネットは、彼の味方だった。モンテスキュー伯爵夫人が目の上のたんこぶなのは、アントワネットにとっても同じだった。
旧貴族の名家であることを鼻にかけたこの
小賢しい旧貴族のこの女は、断乳に反対する医師三人の意見書を、出張中の皇帝の元まで送りつけてきたのである。
今で言う、セカンドオピニオン、この場合は、コルヴィサールに反対の意見書だ。
だが、皇帝は言った。
「医学的なことなら、コルヴィサールに従えばよい」
……「今日、君は何人殺すつもりかね、ドクター」
……「あなたほどではありません、陛下」
ナポレオンとその第一主治医コルヴィサールは、こんな冗談を言い合う仲だった。ナポレオンは、医学は信頼していなかったが、コルヴィサールは信頼していたという。
喜々としてアントワネットは、皇帝の言葉を、コルヴィサールに書き送った。
すぐに、コルヴィサールから返事が来た。
……ようやく、モンテスキュー伯爵夫人を納得させることができました。で、あのハクシャク夫人、なんと言ったと思います? 『ローマ王離乳における障害は取り除かれた』、ですと。障害になっていたのは誰だったと思ってるんですかね!
モンテスキュー伯爵夫人は、皇帝の許可が下りなければ、断乳はすべきではないと主張ていた。皇帝から許可が下りたので、彼女も、断乳に賛成した……というわけだ。しかし、コルヴィサールもアントワネットも、モンテスキュー伯爵夫人の皇帝への忠誠心は、全く評価しなかった。ただただ、彼女が目障りだった。
7月7日、1歳5ヶ月で、ローマ王はめでたく、断乳を完了させた。
*
ドレスデンで、マリー・ルイーゼは、東へ向かう夫を見送った。その後、彼女は、父帝フランツについて、プラハへ向かった。そこで懐かしい弟妹、叔父らと再会し、さらにフェルディナント大公から、ヴュルツブルクへ招待された。
出発してから2ヶ月半。
ようやくパリへ帰着した皇妃を、礼砲が迎えた。
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ドレスデンから、ナポレオンはポーランドへ旅立っていた。そこから、ロシアへ向けて、侵攻を開始した。
短かった平和の終焉だった。ヨーロッパはまた、戦乱の渦に巻き込まれていく。同時にそれは、ナポレオン自身の没落の始まりでもあった。
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……やっぱり、あれがまずかったかなあ。
パリでは、ローマ王の断乳を見届けたコルヴィサール医師が悩んでいた。
それは、出産の少し後のことだった。ローマ王の検診に訪れたコルヴィサールは、皇帝の部屋に立ち寄った。
息子の順調な生育具合に、皇帝は、大層、満足げだった。言うなら今だと、コルヴィサールは思った。
「今回のお産は、皇妃様におかれましては、大変なご負担でした。実は、皇妃様は……」
「皇妃は?」
ナポレオンは怯えたように繰り返した。思い切って、コルヴィサールは先を続けた。
「この先、皇妃様におかれましては、お子をお産みになることは、難しいかと存じます」
ナポレオンは、長く息を吐き出した。
「女にとって、お産というのは、大変な仕事だものな。男にとっての戦場と同じだ。今回のことで、余も思い知った。その苦しみの中で、皇妃は、ローマ王を与えてくれた。彼女を、再びあんな目に遭わせるくらいなら、子どもは、ローマ王一人でたくさんだ」
それは、コルヴィサールが予想していた反応とは違った。もっと驚き、嘆くかと思ったのだ。
子どもは、どんなに大事に育てても、成人できるまで生きられるとは限らない。たとえ王家の子であっても、同じことだ。子どもは一人でいいなどという言葉が、あれだけ世継ぎを望んだナポレオン口から出てくるとは、考えもしなかった。
ややあって、ナポレオンは、気遣わし気に尋ねた。
「それで、コルヴィサール。あっちの方は、どうなんだ?」
「あっちの方」が何をさすかは、自明の理だった。この皇帝に、それを禁止することは、サカリのついた獣を欧州全土に解き放つようなものだ。
「それは、問題ないかと」
急いで、コルヴィサールは答えた。
実はコルヴィサールは、皇妃のマリー・ルイーゼから、極秘に頼まれたのだ。
……自分はもう、お産はいやだ。母のように、産褥で死にたくない。
あんな苦しい目に遭ったのだから、無理もないと、コルヴィサールは同情した。皇后にやたら子を産ませる、オーストリア宮廷の方針に、反感を覚えてもいた。
……皇妃様がローマ王に冷淡なのは、ご自分の母親から、同じ扱いを受けていたせいではないか。
密かにコルヴィサールは疑っていた。皇妃の実母は、亡くなるまで、ほぼ毎年子どもを産んでいる。長女であるマリー・ルイーゼに構っている余裕がなかったとしても、不思議ではない。
……いずれそのうち、皇妃様も、お二人目が欲しくなるだろう。
コルヴィサールは考えた。
……皇帝がきちんと夫の務めを果たしていたなら、「思いがけない妊娠」だってありうるわけだし。
それで、ナポレオンに、あのように奏上したのだ。
……まさか、開戦とは。
……しかもロシアと!
次の子を、すぐにも授かれるという見込みがあったなら、ナポレオンは、少なくともあと数年は、皇妃のもとでおとなしくしていたかもしれない。人としての喜びを知り、平穏に浸かりきったまま息子に譲位、ということだってありえたかもしれないのだ。
ローマ王の元、ヨーロッパの平和は保たれたかもしれないのに!
疼くような後悔を覚えた。悶々と、コルヴィサール医師は悩み続けた。
*
掴みどころのないロシア軍に、フランス軍は、長期戦を強いられた。ロシア兵は、神出鬼没だった。追いかけ、逃げられ、いつの間にか、後戻りのできないところまで来ていた。
夏。日中の酷暑と、夜の思いがけない寒さで、兵士も馬もやられた。戦乱で物資の補給路が絶たれたが、町々は焼かれており、現地調達もできない。
8月15日は、ナポレオンの43歳の誕生日だった。
マリー・ルイーゼからのプレゼントは、少し遅れて、戦場に届いた。
荷を解くと、それは、大きな絵だった。
「ローマ王だ。素晴らしい!」
テントの周りに、兵士達が集まってきた。
「諸君!」
ナポレオンが声を張り上げた。
「15歳になったら、わが息子は、この絵とは、随分違ったふうになっているだろう。ただ、その時、彼は、確実に、諸君と共にあり、共に戦っているであろう!」
「ナポレオン、万歳! ローマ王、万歳!」
兵士達の間から、叫び声が上がった。
不意にナポレオンは、ため息を付いた。
「絵を片付けろ。戦場を見せるには、彼はまだ、幼すぎる」
モスクワに入ったのは、秋だった。首都は、静まりかえっていた。白昼夢のような静けさの中、ナポレオン軍は、クレムリンの宮殿に入った。
翌早朝、火事が起きた。この大火で、街の8割が焼き付くされた。
ナポレオンからの和睦の呼びかけに、ロシア皇帝アレクサンドルは、まだ戦争になってもいないと、鼻で笑った。
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