白い軍服への憧れ
美しい夏だった。
久しぶりの母との再会に、フランツは、はしゃぎまわった。
バーデンに滞在し、それから、ラクセンブルク、ペルセブルク、最後にウェインチールと、小旅行を楽しんだ。
片目の「護衛官」も、もちろん、ずっと一緒だった。
ディートリヒシュタインの心配は、やっぱり杞憂のようだった。フランツは、咳をする気配もなかった。それどころか、夏の日差しの中、毎日、元気に遊び回っていた。
ブドウ畑の中の細い道を、どこまでも走っていく。
濃い緑のブドウの木の下を、小さな帽子が、遠くまで見え隠れしていた。
ドナウ川でも、よく泳いだ。
「ねえ母上。パルマってどんなとこ?」
ある日、彼は、無邪気に尋ねた。
泳ぎ疲れ、河原で寝そべっている。
マリー・ルイーゼは、大きな日傘をさして彼の隣に腰を下ろしていた。
微笑みながら答える。
「イタリアは、南国よ。食べ物がおいしいの。太陽の光が透明で、木や建物が、きらきら輝いてみえるわ。少し行くと、海が見えるのよ。海は、怖いこともあるけど、いつもはとてもいい匂いで、青くて広いの」
「海!」
フランツは目を輝かせた。フランスからアルプスを越えてウィーンにやってきた彼は、まだ、海というものを見たことがなかった。
「いいな! 僕も行ってみたい!」
はっとしたように、言葉を途切らせた。
マリー・ルイーゼも息をのんだ。
……この子がパルマに来ることは、永久にない。
それどころか、ウィーンから出ることさえ、許されないのだ。この先、フランツは、海を見ることが、できるのだろうか。
彼女の息子は、Mの監視下にあった。
それに……。
うつむき、マリー・ルイーゼは、密かに唇を噛んだ。
……フランツがもし、パナマへ来るようなことがあったら。
……自分は、この子の、愛と信頼を永久に失うだろう。
アルベルティーナとヴィルヘルム……舌足らずな口調で彼女を「シニョーラ」と呼ぶ二人……の存在を、フランツに、絶対の信頼をもって自分を見上げている息子に、一体どうして知らせることができよう。
だが彼女は、驚くほど罪悪感を感じていなかった。
彼女はただ、ハプスブルク家の女として、生きているだけだ。
結婚と多産は、ハプスブルクの女の、義務なのだから。
*
二度目に母が訪れたこの年は、12歳のライヒシュタット公フランツが、正式に、その軍事キャリアをスタートさせた年だった。
前年末、彼は、皇室歩兵隊の軍曹に任命された。軍曹は、軍隊の下級将校である。
歩兵の規定として、彼は、要塞防備や砲撃戦略などについての教育を、ワイス将軍から受け始めた。
フランツの軍事への興味は強く、知識の吸収は目覚ましかった。
彼は、数学の他にも、地理や化学など、軍務に重用な実学は、ことさら、熱心に勉強し、また、優秀だった。
家庭教師のフォレスチ先生と一緒に、フランツは、ワグラムなど、戦略上重用な土地の地図を作成し、祖父の皇帝に進呈したりもした。
日頃、フランツのことを、「覇気がない」「怠け者」だと、小言を言い続けているディートリヒシュタイン先生でさえ、彼の軍務の知識は驚くほどだと驚嘆した。この調子で勉強を続け、16歳~17歳にもなれば、極めて位の高い軍人よりも豊富な知識を持つようになるだろう、と誇らしげに断言した。
母マリー・ルイーゼの来訪したこの夏、フランツは、軍曹として行軍することを命じられた。彼は、誇らしげに、母と祖父の前を行進して歩いた。
12歳の夏は、子ども時代で最も幸せな時だったと、7年後に、ライヒシュタット公自身が、回想している。
この頃の彼の目標は、いずれ、白い制服を着ることだった。栄えあるオーストリア将校の、腰を絞ったデザインの制服は、彼の憧れの的だった。
葛藤は、12歳の子どもには、まだなかった。
オーストリアは、オーストリアの利益のために、軍事行動を取る。それがもし、フランスと敵対したら……。
彼はまだ、父親が彼に向けた遺書を知らなかった。
……決して、フランスと戦ってはならない。どんなことであれ、フランスを傷つけることなかれ。父の座右の銘を、心に刻んでおくように。「全ては、フランスの人々の為に」
【作者より】
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軍曹の制服を着て母の前を行進したエピソードは、「母との夏 1」で書きました。
その後、新しい資料を見つけ、ライヒシュタット公の軍事キャリアが正式に始まった年が、1823年(12歳)だったと判明しました。
「母と過ごす夏」を公開した時点で、1822年に、皇室歩兵隊の「under-officer」に任命され、年末までに制服ができたことまではわかっていました。ですが、軍隊の仕組みは難しく、どう訳していいのかもわからず……。また、ワイス将軍と、フォレスチの地図のエピソードは仕入れてあったのですが、全体として、どういうタイミングで軍事教育を受けていたのか、はっきりしませんでした。
軍務は、彼にとって、極めて重要でした。蔑ろにすることは、許されません。
新しく資料を得たことにより、初期の軍事関係の話をまとめたいと思い、件のエピソードを、「母との夏 1」から削除し、こちらに移動させて頂きました。
同じ話を繰り返してしまい、申し訳ありません。
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ライッヒシュタット公の子ども時代のエピソードは、この辺りで幕とさせて頂きます。
ここから、独自キャラを投入して、実在の人物もまた、大きくいじって、私の物語を展開していきたいと思います。
ただ、実在したライヒシュタット公への敬意から、実話としての側面も残したいと思います。実際にあった出来事や、彼や、回りの人の言葉も、出来る限り、取り込んでいきたいと考えています。
日本では、あまり有名な人ではないので、どこまでが実話なのか、判断がつきかねるかもしれません。
最後に、史実の年表を載せようかと考えています。また、ご質問頂ければ、都度都度、お答えさせて頂きます。
新しい章に入る前に、スピンオフとして、短編「カール大公の恋」をアップロード致します。
フランツの祖父の皇帝の弟、カール大公と、マリー・アントワネットの生き残った娘、マリー・テレーズの、恋物語です。ナポレオンが台頭してきた頃から、フランツがウィーン宮廷に引き取られた頃までが舞台となります。
本編でも触れた内容ですので、既視感がおありかと思いますが、もう少し丁寧にまとめてみました。
お楽しみいただければ幸いです。
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