side story 1848ウィーン革命

娘を嫁がせる日 1



 1832年、8月9日。皇帝の孫の、悲しい死から、半月後。

 ハンガリー王、フェルディナンド大公は、ヘレネンタール(保養地バーデン)を散歩していた。


 曇りがちの、肌寒い日だった。大公は、従者を一人、連れていた。


 突如、銃声が轟いた。フェルディナンド大公は、肩を抑え、倒れた。

 茂みの中から、黒っぽい服装、シルクハットの男が、こちらに背を向け、逃げていく。


 近くにいた、3人の男が、飛び出してきた。近くで作業中の農夫たちだったのだろうか。鎌や棒を手にした彼らは、逃げていく男に、襲いかかった。

 あっという間に男を捕らえ、引きずり、バーデンの役場へ引っ立てていった。


 フェルディナンド大公は、すぐさま医師の手当を受けた。

 上着の生地が厚かった為、最悪の事態は免れた。だがその後、事件の衝撃から、大公は病み、一時は、秘跡の儀を受けるまでに至った。


 捕まった男は、縮れた藁のような髪をした、引退したばかりの将校だった。

 彼は、退職金として900グルテン(約540万円)を要求した。しかし、支払われたのは、100グルテン(約60万円)だった。

 フェルディナンド大公を襲ったのは、その逆恨みだと、彼は言った。





 幸い、フェルディナンド大公は、回復した。

 だが、この出来事は、父である皇帝に、深刻な衝撃を与えた。犯人が、皇族を守るべき将校だったことが、憂慮に拍車をかけた。


 いずれこれが引き金となって、オーストリア各地で反乱が起こることを、皇帝は恐れた。

 自分の家族が、臣民によって傷つけられたことは、皇帝にとって、初めての経験だった。


 そもそも、フェルディナンド長男は、人から恨みを買うような人間ではない。彼に、自分の意思というものは、ないのだから。


 それは、臣下から、皇族に向けられた、初めての悪意だった。

 民の心が、皇室から離れていく気配を、早くも、皇帝は感じ取った。





 この襲撃は、将校の、個人的な恨みによる反抗ということで、片がついた。

 だが……。


 フェルディナンドは、次期皇帝だ。

 彼は、宮廷の、誰からも好かれていた。だが、政務のできる体質ではない。彼には、自立した生活さえ、難しい。


 フェルディナンドへ向けられる憎しみは、同時に、硬直したウィーン体制への憎しみでもあった。

 フェルディナンドが即位した時、恐らく……間違いなく……彼の補佐役となる、メッテルニヒへの。







 さかのぼること2年、1830年。

 フランスに7月革命が起きた。


 ブルボン王朝のシャルル10世は、孫のアンリに譲位する為に退位すると宣した。だが、この旨記した書状を託した相手が悪かった。

 親戚のオルレアン公ルイ・フィリップに預けたのである。彼の兄、ルイ16世のギロチンに賛成票を投じたエガリテの、息子に。


 立法府議会でその手紙を読み上げたルイ・フィリップは、故意に、国王が、孫を王位継承者に指名した部分を省いた。


 3日間の混乱を制し、フランスに王制が戻った。王位に就いたのは、ルイ・フリップだった。




 ブルボン一家は、アメリカの定期船に乗せられ、行く先もわからぬまま、出港した。

 辿り着いたのは、イギリスだった。




 2年後。

 ブルボン家の亡命「王朝」は、王太子妃マリー・テレーズの母マリー・アントワネットの実家、オーストリアの保護を求めた。。


 マリー・テレーズの従兄であるオーストリア皇帝は、フランスの亡命王朝を迎え入れた。

 一行は、プラハのフラドシン宮殿に居住を許された。



 1835年、オーストリア皇帝フランツが崩御した。新皇帝の戴冠式にフラドシン宮廷が用いられることになり、暫時、明け渡すことになった。


 これを機に、ブルボン家は、ゴリツィア(イタリア半島の東の付け根の町。この時代はオーストリア領)に居を移した。


 翌年、シャルル10世が亡くなった。

 ゴリツィアの、正統ブルボン家の家族は、マリー・テレーズとその夫、二人の姪ルイーズと甥アンリの4人だけになった。







 アウグスティーナ教会の鐘が、ウィーンの空に、高らかに響き渡る。それを待っていたかのように、いっせいに、礼砲が鳴り響いた。


 今日は、カール大公の長女、マリア・テレジアの結婚式だった。

 新郎は、両シチリア王、フェルディナンド2世。スペイン系のブルボン家の血筋を汲む。


 聖歌隊が「テ・デウム(聖歌)」を歌う中、新郎新婦は、祭壇から礼拝堂に続く、長い廊下を歩いていく。



 27年前、この廊下を、今日の新婦の父、カール大公も、同じように、ゆっくりと進んで行った。

 だが、彼が腕を貸していたのは、自分の妻となった女性ではなかった。

 彼が腕を貸していたのは、ナポレオンの妻となった姪だった。彼は、ナポレオンとマリー・ルイーゼの代理結婚で、新郎代理を務めたのだ。

 新郎のナポレオンに、特に頼まれてのことだった。


 その勝利神話に、初めて汚点をつけられた敵将であったにも関わらず、ナポレオンは、なぜか、カールに、友情を感じていたようだった。




 「父上! まだ、こんなところに! お召し替えをしなければなりません。早く早く!」

 息子のアルブレヒトが迎えに来た。新婦マリアの、ひとつ、年下の弟である。


 結婚式に続いて、、祝宴が催されることになっていた。

 急いで着替えて、ホーフブルク宮殿へ向かわねばならぬ。


 ……こんな時。

 カール大公は思った。

 ……いつもなら、急かしに来るのは、マリアだった……。


 娘を嫁に出したのだという実感が、ひしひしと胸に迫ってきた。寂しさがつい、口からこぼれる。

「マリアの役目は、お前に移ったというわけだな、アルブレヒト」


「父上。甘えてもらっては、困ります。私には私の、任務がございますゆえ。弟たちも同じです」

 今年20歳になる青年は、尊大に答えた。

 語調を和らげた。

「ですが、もう2~3年もすれば、カロリーネが、お役に立てるようになるでしょう」


 下から2番めの娘、マリア・カロリーネは、今年でやっと12歳だ。先の長いことだと、カールは思った。




 アルブレヒトは、カールに倣い、軍務に就いている。その軍歴のごく初期の時期に(わずか13歳だった)、大佐に任じられた。


 あまりにも早すぎる昇進は、息子アルブレヒトの為にならなかったのでは、と、カールは思った。今からでも遅くはない。少し、苦い思いをさせる必要があるかもしれない。


 だって、は、あんなにも謙虚で素直だったのだから。


 カールは目を閉じた。

 まぶたの裏に、13歳から軍務を志し、長い間、軍曹だった青年の姿が浮かんだ。

 皇帝の孫であったにもかかわらず、彼が、大佐に昇進したのは、21歳の時だった。

 その死の、2ヶ月前のことである。


 そういえばマリアは幼い頃、彼の馬車に、しきりと乗せてもらいたがっていた。

 新年から、皇妃の皇妃の聖名祝日(本人が命名されたのと同じ名の聖人の祝日)までの間の、休みの時期。マリアは、毎年のように、彼の馬車に乘りたがっていた。

 彼は、幼い日のマリアの、憧れの人だったのだろうか……。


 ナポレオンの代役を務めた、この教会のせいだろうか。

 今日は、のことが思い出されてならない。


 ナポレオンの息子。皇帝の孫でもあった、あの優美で、もの憂げな青年のことが。

 自分たちは、彼の可能性を、押しつぶしてしまったのだろうか……。




 礼拝堂を出ると、カールの少し先を、老夫婦がゆっくりと歩いていた。

 二人とも、きらびやかな服装の参列者の中で、ひどく古ぼけた礼服を着用している。


 妻は、ぴんと背筋を伸ばし、それでもまだ、若々しげな歩き方をしていた。

 だが、夫のほうが、いけなかった。

 後ろから見てもわかるほど、彼は、痩せこけていた。まるで、棒っきれのようだ。背を丸め、足を引きずるようにして、歩いている。


 アルブレヒトも、先を行く夫婦に、気がついたようだ。

「アングレーム公ご夫妻(※1)が見えているようですね。新郎は、ブルボン家ゆかりの方だから、イタリアから出ていらしたのでしょう」



「アングレーム公は、お体が悪いのか?」

思わず、カールは尋ねた。


 アングレーム公は、カールより、4つ年下の筈だ。

 しかしこれではまるで、彼のほうが、ずっと年上に見える。


 アルブレヒトは首を傾げた。

「さあ、どうでしょう。特に聞いておりませんが」


 カールは傍らの息子アルブレヒトに、介添えをするよう、命じようと思った。


 その時、彼は、気がついた。

 夫の手が、妻の後ろに回り、その背を、愛おし気に撫でるのを。


 息子と肩を並べ、無言でカールは、歩き続けた。








*:.,.:*:.,.:*:.,.:*:.,.:*:.,.:*:.,.:*:.,.:*


※1 アングレーム公夫妻

マリー・アントワネットの娘マリー・テレーズと、その夫ルイ・アントワーヌのことです。フランス亡命に先立ち、「マルヌ伯爵夫妻」と名を変えていますが、ここでは、「アングレーム公爵」の名を用います。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る