2通の手紙
メッテルニヒの秘書官長、ゲンツが動いてくれたおかげで、フランソワの身の回りは、一応の安全が保たれていた。
実際のところ、情勢は緊迫していた。
年の初めには、フランスのアポニー大使から、「ライヒシュタット公は、フランスの様々な政党の、興味と恐れの対象である」とする報告が、宰相のメッテルニヒ宛に、届いたばかりだった。
また、メッテルニヒは、パルマのマリー・ルイーゼに、ボナパルニストの動きが活発になっていると、警告を発している。
家庭教師陣の警戒も、強まっていた。彼らは、外国から来る者と、プリンスが接触しないよう、細心の注意を払っていた。
だが、フランソワには、何も知らされなかった。彼は、昨年夏の大尉への昇進を祖父の皇帝に感謝し、一刻も早く、実際の戦闘に参加したいと、待ち望んでいた。
*
「何をしているんですか、殿下」
ふらりと立ち寄り、アシュラは尋ねた。
書いていた何かを、フランソワは、さっと隠した。
「ははん」
すぐさま、アシュラは悟った。
「また、母上に、お手紙を書いていましたね?」
「悪いか!」
赤くなって、フランソワは叫んだ。
「悪くはありません。母親思いは、いいことです。でも、女の子の受けは、必ずしもいいとは限りませんよ?」
「またお前は……」
フランソワは、処置なしという風に、首を振った。
「心配なんだよ。……ナイペルク将軍のことが」
「ナイペルク? ああ、パルマの執政官の!」
片目のこの元軍人を、アシュラも見たことがある。
「そういえば、ディートリヒシュタイン伯爵も、心配していましたね。去年の夏に来た時、顔色がひどく悪かったって」
ディートリヒシュタインとナイペルクは、古くからの友人同士だった。頑固な伯爵を、フランソワの家庭教師に推薦したのは、ナイペルクである。
フランソワは頷いた。
「僕もそう思った。将軍、元気がないなって。案の定、パルマへ戻る途中、体調を崩されたんだ。母上だけ先に出立なさって、遅れて将軍もようやく、パルマに帰り着かれたそうだ」
「それはそれは」
「なのに、母上は、なかなか将軍の様子を知らせて下さらない。だから、手紙を書いて、将軍の容態を知らせて下さるよう、催促しているのだ」
「前の手紙は、いつ届きました?」
「5日前」
アシュラは呆れた。
「5日間、手紙が届かないからって、催促の手紙を書いているんですか、あなたは!」
「だって、木曜日から火曜日までの将軍の具合を、僕は、知ることができないんだぞ。心配じゃないか!」
「……。ナイペルク将軍って、確か、グスタフ・ナイペルクのお父さんですよね? モーリツ・エステルハージと一緒になって、あなたを、悪所巡りに連れ回している……」
「悪所になんか、行っていない!」
「お行きなさいよ。むしろ、行くべきです」
「いやだ」
「……グスタフに聞けばいいでしょう?」
「何を?」
「お父さんの具合。彼には二人もお兄さんがいて、パルマとウィーンを行ったり来たりしているんだから」
「僕は、お母様から、教えて頂きたいんだ!」
「やっぱり、ただお母さんから手紙が欲しいだけじゃないか……」
横を向き、口を歪めてアシュラはぼやいた。
「何か言ったか?」
フランソワが尋ねる。
「いいえ。何も」
「本当に、心配なんだ。将軍は僕に、とてもよくしてくれたから。生まれて初めて、狩りに連れて行ってくれたのも、ナイペルク将軍だった」
マリー・ルイーゼとウィーンに帰ってきたナイペルクは、7歳のフランソワを、狩りに連れ出した。
大きな銃声に少しも動じないフランソワに、同行した家庭教師達は、驚いていた。同時に、さすがナポレオンの息子だと、感嘆した。
「でも、仕留めたのは、うさぎやうずらみたいな、小さいのばかりだったけどね」
フランソワは肩をすくめた。
「少し前にも、将軍は、フランス語を学ぶ重要性を教えてくれたし」
……ナポレオンが使った言葉、彼の軍を勝利に導いた号令は、何語で発せられましたか?
「それで、僕は、わかったんだ。僕にはフランス語を学ぶ理由があるって」
疑い深い眼差しで、アシュラがフランソワを見ている。
「でも、今、将軍は具合が悪いのだから、手紙なんか書けないでしょ。実際に書くのは、あなたのお母さんだ」
「子どもっぽいことなんか、書いてないよ!」
フランソワは叫んだ。
「甘えたことも書いてない。ほら。読んでみろよ」
書きかけの手紙を押し付ける。
スパイは受け取り、無言で目を通した。
「……あれ?」
「何?」
「ここ……」
手紙の一節を、アシュラは読み上げた。
「貴女は、いつも将軍のそばにいて、彼の世話をすることができる。貴女がうらやましいです、大好きなママ」
「親愛なる母上、だ! 勝手に変えるな!」
「同じことでしょ」
「ぜんぜん違う! で、そこが何か? だって、僕やディートリヒシュタイン先生は、ウィーンで、ただただ、パルマからの早馬の到着を待つしかないんだぞ?」
「いやね。同じ表現を、どこかで読んだ気がして……」
「気のせいだ」
きっぱりと、フランソワは言い切った。
「な。大人の男として、ちゃんと振る舞っているだろ?」
アシュラの手から、手紙を奪い返した。
「そういうわけで、状況は差し迫っている。急いで続きを書かなくちゃならない。さっさと出て行けよ」
肩をすくめ、アシュラは、フランソワの部屋を出た。
家庭教師の控室の前を通りかかった時だった。
アシュラは、はっと立ち止まり、中へ入っていった。
フランソワの手紙に対する既視感の、理由を思い出したのだ。
3人の教師は、いずれも不在だった。構わず、キャビネットに近づいていく。
……ほら。プリンスは随分、きれいな字を書くようになっただろ? 見てみたまえ。この、Sの字の、優美な曲がり具合!
得意げに言って、ディートリヒシュタインが手渡した……。
基本、フランソワが書く手紙は、全て、家庭教師が目を通している。ディートリヒシュタインなどは、文法や文字の間違いをうるさく指摘するが、本当の目的は、不審な人物と接触させない為の監視である。
ナポレオンの息子には、通信の自由がないのだ。
教師の訂正の入った手紙を清書し、家庭教師の再チェックの元、ようやく、郵便に乗せることができる。
もちろん、フランソワも、ちゃんとわかっている。
そもそも、子どもの頃からの習慣である。
アシュラは、キャビネットに几帳面に収められた紙ばさみを漁っていった。
不要になった下書きは、オベナウスが、丁寧にファイルしている。
コリンの後任のこの家庭教師を、フランソワは、メッテルニヒのスパイだと疑い、嫌っていた。
アシュラが調べたところでは、そのような事実はない。ただの小心の、官僚的な男というだけだ。
アシュラ自身は、フランソワの身の回りを探ることは、とっくにやめていた。しかし、ディートリヒシュタインに見せびらかされて、あの時は思いがけず、彼の私信に目を通すことができた。もっとも、家庭教師の目に触れている時点で、それは、純粋な私信とは言えないのだが。
探している一枚は、すぐにわかった。
2年前、フランソワが15歳の秋に書いた手紙だ。ナイペルクに宛てている。
「
……僕は、口で言うよりずっと、貴方が羨ましいです。だって貴方は、僕のお母様の、すぐそばにいるから。来月の12日のお母様のお誕生日にだって、貴方は、直接、僕のお母様に会って、おめでとう、って言えるでしょ? 僕が、一生懸命、お母様に、バースデーカードを書いている時にね! ……
」
これが書かれたのは、フランソワが、勉学にやる気を出し始めた頃だった。夜中まで机に向かう彼を、ディートリヒシュタインは、体を壊すと、本気で心配していたものだ。
……僕は、口で言うよりずっと、貴方が羨ましいです。だって貴方は、僕のお母様の、すぐそばにいるから。
……貴女は、いつも将軍のそばにいて、彼の世話をすることができる。貴女がうらやましいです、親愛なる母上。
全く同じ表現だ。
15歳の時は、ナイペルクを羨み、今回は、母を羨んでいる。
ナイペルク将軍に親近感を持っていると、さきほど、プリンスは、言い張っていた。だが、看病する人さえ羨ましいと感じるなんて、おかしい。そして、5日も手紙が来ないと言って、母を
マリー・ルイーゼが5歳の息子を置いて、パルマへ旅立ってから、ウィーンの彼の元へ帰ってきたのは、今の時点(1828年末)で、たったの5回だ。だが、ナイペルクは、ずっと、彼女のそばにいる。
フランソワが、ナイペルクの病床に侍る母を羨んでみせたのは、
……つまりプリンスが羨ましいのは、
……ナイペルク将軍の方だな。彼は、
でも、そのようなことは、17歳の大尉として、書くべきではない。
それに、ナイペルク将軍の病状はひどく悪い。そんな風に書いたら、家庭教師から叱責の上、訂正を喰らうだろう。
だから、こんな奇妙な表現しかできなかったのだ。
……かわいそうにな、プリンス。体だけは大きくなったけど、彼の中では、寂しい子どもが泣いているんだ。
アシュラは思った。そして、首を傾げた。
……母親なんて、そんないいもんじゃないのにな。
※
フランソワの書いた2つの手紙は、実在する手紙を日本語にしました。
・母親宛てに、ナイペルク将軍の病状を案じる手紙の日付は、1828年12月2日付です。時系列では、この前の、フランスの詩人、バーソロミーの逸話より1ヶ月ほど前になりますが、次の話との関連から、ここに配置しました。
また、
・15歳の時の、ナイペルク宛ての手紙の日付は、1826年11月16日です。なお、マリー・ルイーゼの誕生日は、12月12日です。
2つの手紙は、違う本に載っていました。この2つを比べた資料って、あるんでしょうか? 私に、ドイツ語、フランス語がわかれば、頑張って探すのに……。残念です。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます