第4話 月に何があるっていうの?
話は2029年にさかのぼる。
混乱するが、ヒューマンビーイング(人類)世界の2029年のことである。
人類世界における21世紀はじめ、ユーラシアの端に空前の大帝国が勃興した。(まさに21世紀のはじめを生きている我々に、わざわざ国名を示す必要はないだろう)
面積こそ歴史上最大というワケではないが、その人口はローマ帝国の軽く数百倍、その伸張欲求はアレクサンダーに比肩し、その独裁体制はナチスより狡猾であった。帝国の定義からは外れるかもしれないが、完全なる一党独裁のこの国を後世の人々が史上最大の帝国と呼んでもおかしくはないだろう。
いずれにせよ、この帝国は2020年代に絶頂期を迎え(経済規模はそれ以降も伸び続けるが、トップの死や、世界的に進んだデジタル上の国境の崩壊、国民の自己啓蒙の結果、まるで時代を築いたミュージシャンが作曲の才能を枯渇させていくように国家の勢いというものは薄れていく)それを象徴するように目指したのが「月面の有人探査」であった。
そう、2029年。人類は再び月に立ったのである。
独裁という言葉のイメージは良くないが、独裁政治はフットワークが軽いのも事実だった。ピラミッドもコロッセウムも万里の長城も、後世に残る偉業というのはこうしたある程度の賢明さを持った独裁政治が受動的な何らかの幸運で‟勢い”を持った時に成し得るものかもしれない。
「月に何があるっていうの?」
助手席の少女は日焼けした手でスマートフォンを弄りながら訊ねた。手と同じくよく日焼けした右足を座席に乗せ、その自らの膝を肘掛けにして怠そうにしている。
「え?」運転席のドアを開けるなり訊かれたものだがら、ネッゲル青年はよく聞き取れなかった。旧車のカラクリ仕掛けのドアロックはガチャリという大きな音に彼女の質問はかき消されてしまったのだ。「なんだい?」
ネッゲル青年は車に乗り込みながら、コーラを少女に渡した。
「ほら、ビン入りだ。さすがアトランタだろう」
「ほんと。初めて見た。ただのガススタンドだったんでしょう?」
「だからアトランタなんじゃないか」ネッゲル青年はその巨体を座席に押し込めると何度か座り直して、ちょうどいい体勢を見つけると自分もコーラを一口やった。 「それで、なんだい?」
「ほら」
少女はスマートフォンの画面をネッゲル青年に見せた。着陸船の船内の様子が画面に映し出されている。「2001年宇宙の旅」の威光がそのまま照明になっているような真っ白な船内だ。未来とはこうでなくてはいけないという徹底的な白。その鮮明なライブ映像はスマートフォンに切り取られ、さらにそれを握る少女のよく日焼けした指の爪のライムグリーンが額縁を演じると、それはまるで絵画のようだった。
「ああ中国か。あと3時間だよ、確か」
「何が?」
少女はスマートフォンを自分の顔の前に戻しながら言った。通信技術は向上したが、手のひらサイズのネットデバイスというアイディアと、それがもたらす生活様式は変わっていない。
「着陸までさ」ネッゲル青年は几帳面にシートベルトをする。「狙ったように…というかそれが狙いなんだが…狙ったようにピンポイントで静かの海に着陸するそうだぞ」
「静かの海?」
「アポロのだよ」
「ふぅん。で、月に何があるの?」
少女は、さしてその疑問を解決したい気も無げに訊ねた。それよりは、着慣れないドレスの裾が気になっているようだ。
「だから」車のエンジンのセルが回る。車内にもすこしだけガソリンの香りが広がった。「だから月にはアメリカ国旗があるんだ」
2029年6月、月にはアメリカ国旗といくつかの太陽神の残骸のみがあった。
あったはずだった。
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