第329話 ナオミ(後編)
いよいよだ…
一年待った試練の時がきた。
まるで路地裏に停めていた秘密警察の覆面パトカーのように、地球と月のラグランジュポイント(地球と月の間の重力が釣り合う点)にひっそりと停泊していた巨大な宇宙船がいま、その進路を人類がサウロイドから略奪した月面基地に向けて動き出した。
操縦席に座るのはたった一人の少女である。
この宇宙船の正体も目的も謎だ。ただその少女の表情から分かるとすれば、それはただ一つ…この宇宙船が略奪を戒めようという公明正大な目的で動いているのではない、という事だけである。
――――――
スッ……
人工重力を切ると、猟犬のヒョルデはバランスを失ってまるで子犬のように、操縦席に座るナオミの背中に抱きついてきた。
「放せ。操縦が出来ないだろう」
ナオミは迷惑そうに、しかし笑いながら操縦桿を右手に持ち替え、もう左手を背中に回し(なんと関節が柔らかいことだろう)ヒョルデの頭を撫でてホールドを解くように促した。撫でられたヒョルデは「キューキュー」と変わった声で静かに鳴き、そして彼女もまたナイロン繊維のような細く丈夫でスッキリした触感の毛で覆われたヒョルデの頭を心地良く撫で回す。
「ああ…」
宇宙放射線にすら耐えるヒョルデの毛量は圧倒的で、手の触覚神経が全方位的に刺激されるがため水を触っていると錯覚するほどに気持ちがいい。彼女は撫でるうちに、抱き着くのをやめろ、という指示をする最初の目的がどうでもよくなってきて、むしろ別のスキンシップに気持ちが変わっていった。
「ああそうだ、友よ…」
彼女は視線は前に、グイグイと迫ってくる月を見つめながらヒョルデに言う。
「今日という日を生き残ろう。友よ」
「今日という日を生き残ろう。友よ」
「今日という日を…」
と、そのときだった。
まるで、今回の試練に許された唯一の武器であるヒョルデにベルセルクの呪文をかけるように彼女が巨大な頭を撫でていると、そこに‟マスター”からの指令が入ったのである。
「……!」
別の指令だった。
その文面はぶっきらぼうだが礼節あるもので
「長老からの通達で試練の内容に変更があった。試練の場は‟離れ島”とする(後述)。
「試練の内容を突如変えるのは伝統と我らの信教に反するものであり、大変申し訳なく思う。…これもまた新しい大僧正のせいだ」
「だが、与えられた試練は何であっても遂行せねばならないのもまた教えである。不平という泥に己が心の泉を穢されてはならん」
「貴様が少しの淀みも無い覚悟のまま、今回の試練に挑まんことを望む」
‟マスター”がどんな人物か知らない我々には推測の域を出ないが、どうやら異例の温情と長さを持つ文面だったようで、この時点でナオミは目をグッと瞑って涙を押し留めようとしているようだった。
が、文面はまだ続く。
「…おそらくお前は死ぬだろう」
「私はお前に全ての技を伝えようとし、お前はそれに応えてみせた。しかし同時にお前の体は、我ら一族の
「お前は死ぬだろう…。しかし弟子よ、思い出せ。一片の曇りも無い闘志を持って
「お前が戦士として散ることを祈っている」
「もし生き残れたならば……あの赤い星に連れて行ってやる」
それはまるで電報のようだった。
映像も音声もついておらず、とても超科学の宇宙船の中で閲覧するデータとは思えない素っ気ないものだったが、しかしそれはどんな華麗なCGエフェクトよりも彼女を強く励ましたようだ。
「マスター…」
万感の一言を呟いたナオミだが、しかし次の瞬間にはキリッと戦士の顔に戻っていた。それはもう迷いなく試練のスタート地点となる座標をサッと入力し直した彼女は、船をオートクルーズモードに切り替えると、のし掛かるように抱きつくヒョルデを強引に押し退けて席を立ち、船の後方に向かう。
そう。
この宇宙船なら、ラグランジュポイントから月までなど、あっという間なのだ。つまり――
はやく戦の装束に着替えなくては。
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