第328話 ナオミ(前編)

 ザッザザ! クルン! ピョン…ザン!

 ナオミという名の謎の女はのような鉄の爪を振るって、華麗な殺陣シャドウボクシングを行っている。


 彼女の脳内の仮想敵はよほど強いようで攻撃より回避の動きが多く、テーブルを潜るほどの身を低くした鋭いステップや、爪を有していない左手一本でのバク転を繰り出せば、宇宙船の中とは思えない10畳(9m×9m)ほどもある巨大なトレーニング室すら彼女には所狭しといった具合であった。

 楕円形のトレーニング室の壁一面のディスプレイには、人類により肥大を続ける月面基地が映し出されており……何を隠そうそれこそが、いま彼女に課せられているだったのである。


「絶対に…! 運動不足の研究者など私の敵ではない」

 が月面基地に決まってからというもの、彼女は女だてらに武者震いを続けていた。

 あぁ、振り返ればこの一年は彼女にとって辛いものだった。

 試験相手(月面基地)はどんどん巨大化していく一方で、自分の体が一年だったからだ。というのも、パワーはこそ出ないがアフガンハウンド(犬種)のように鍛え抜かれたムダの無い少年のような肉体を誇っていたはずが、この一年でどんどん‟ムダな肉”がついて丸くなり、いわゆる女らしくなっていく自分の体への怒りと歯がゆさが、むしろ彼女の闘志や好戦をより強固なものにしていたようだ。

 第二次性徴(15,6歳)を迎えただけのことだが、そんな医学知識がない彼女は哀れにも「追い込みが足りないのだ」と自分を責めるばかりだったのである。



「そうよ…はやく戦わせて」

 戦いたくてウズウズしている――あぁ、それは間違いない。

 ナオミは自分の心を客観して、その闘志が「アイデンティティの揺らに起因する滑稽な承認欲求でない」ということを確認した。


 確かに幼い頃からに闘う事を教え込まれてきたため、自分の思想は歪められているかもしれない。戦士でなくなることは戦士のまま死ぬこと以上の恐怖である、という考えはマスターの教えによって植え付けられた思想かもしれない。

 だが植え付けられた思想と自分自身の思想の線引きを、いったい誰ができようか。

 植物のように、心というものが周囲の‟空気”と‟水”を吸収して形作られるならば、何にも影響されない自分自身の思想などというものは存在しない。

 赤ん坊の時から隔離室に入れて誰とも会話させずに成長させたなら「きちんと自分の考えを持っている」なんていう立派な大人になるとでも言うのか。いや……


「くだらない」

 ナオミは唾棄するように呟いた。

「私は…」

 私はあるがままの私として「命を賭けるような戦いをしたい」と思っている――それは一辺の曇りも無い真実だ。もしそれを「洗脳されているのだ」とか批判してくるような連中は切り捨ててやろう。全てを疑うあまり自分の幸福すらも理解できぬ憐れな者は切り捨てててやる…!


 彼女の論理が正しいかは分からないが、少なくとも異常な思春期を過ごした少女の心はそう考えていた。


――――――


 ナオミは脳内の敵と10分も続く死闘を終えると(何回も殺されたようだ)ようやく落ち着きを取り戻し、動きを止めた。

「はぁ…はぁ… さすがマスターだ…」

 そしてその美しい直立のまま、そのトレーニング室に据え付けられた大きな楕円形のディスプレイで月面基地の俯瞰を見つめた。

「いよいよだ」

 そうは20時間後に迫っていたのである。


 ――――――


 一年待った時がきた。

 宇宙船の操縦席に座った彼女は、進路を人類の月面基地に向けた。ここからは戦闘領域に入る。戦士としての健康を支えてくれているとはしばらくお別れだ。

 

 スッ……


 人工重力を切ると、猟犬の「ヒョルデ」はバランスを失ってまるで子犬のようにナオミの背中に抱きつこうとしてくる。いや実際にまだ子犬ではあるが、1Gで計ったときの体重は50kgもあって力が強く、無重力なので重さが無いとはいえ背もたれ越しに背中をホールドされると邪魔で仕方が無い。

「放せ。操縦が出来ないだろう」

 ナオミは迷惑そうに、しかし笑いながら操縦桿を片手に持ち替え、もう片方の手でヒョルデの頭を撫でてホールドを解くように促した。

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