第37話 敵の名はホモ・サピエンス
ここで少し、人類サイドの話をしよう。
こちらの世界の霊長である人類が、今なぜ指を咥えてサウロイドの月面基地を放置しているのかを。
――時はさかのぼり、約三年前。2031年のことだ。
実は、サウロイドがこの月面基地を建設し始めた瞬間に人類はそれを認知していた。
1990年代以降、天文学において月は熱心に観測される対象ではなくなっていたが、2029年に中国が月に有人飛行をしたのを皮切りに、2030年代はアポロ以来の熱い視線が月に注がれ続けていたものだから、サウロイドの基地は建設と同時に(もっともその人工物が何かはすぐには分からなかったが)すぐに発見された。
サウロイドの月面基地を発見したのはアマチュアのアマチュア、半世紀も前に製造された中古の望遠鏡で星空を眺めるという、慎ましやかな趣味を持ったアルゼンチンの老いた修道士だった(まるで中世のようだ)。
パタゴニアの乾いた冷たい空気が彼女の目を鋭敏にしてくれたに違いない。
彼女はある日、月面に不思議な‟シミ”を見つけ、それが日に日に巨大化していく事を発見した。
第一発見者であるという功名心が無かった慎ましいシスターだったので、あるいはもしかすると老婆の世迷い言だと笑われるのが嫌だったのかもしれないが、ともかく発見からたっぷり9日間も観測を続け、‟シミ”が人工物に違いないという確信を得てから近くの大学(サンタ・クルス大学。近郊といっても修道院からは50kmも離れている。さすがスケールが大きい)に連絡をした。
なぜ素人の老婆が第一発見者なのかと、不思議に思うところだが、これは無理もない。
例の「次元超越孔、通称ホール」は表面は厚さ1プランクメートル(推測)の0ケルビン(マイナス273.15℃)の膜で被われているものの、膜はあまりに薄すぎて体積がほぼゼロのため熱容量も観測不可能で熱は発していない。たとえば100℃のコーヒーは火傷するが100℃のミストの1粒は熱を感じすらしないように、ホールの表面は超低温だがその冷たさを容易には検知できないのである。
さらに電磁波に至っては、むしろ近傍では使えなくなるほど(いまエースやレオが危機に陥っているのは、まさに電磁波を使った通信ができない事にある)で、結果として熱も電磁波も発していないので、ホールの存在を遠隔地から事前に気付くというのは不可能だったからだ。
しかもレオが率いるサウロイドの一隊は、基地の建設を始めたわずか5時間後にはホールを覆い隠してしまったため(その後シェルター化され、さらに今はその上に基地が乗っている)、人類がそれに気付くには運と時間…もとい試行回数が必要だったのだ。ブームに沸く天体ファン達の幾本もの視線がダーツのように月面に降り注いで、ようやくアルゼンチンの片田舎のシスターがジャックポットを引き当てたというわけだ。
かくいうわけで、人類は幸運にもサウロイドの基地建設に比較的早く気付く事ができた。場所さえ分かれば、シスターの中古の望遠鏡とは比較にならない、そのまま映画館で上映できるほどの高画質で‟シミ”を観察する事ができよう。
ただ、もちろんというべきか、このとき人類は慎重だった。
月を周回する人工衛星、日本のKAGUYA-IIを向かわせず、あくまで地球上の望遠鏡からの観測を手段をとったのである。
というのも、シスターからサンタ・クルス大学の大学院生、ブエノスアイレスの教授、ヒューストンの天文学者へとバトンが渡るにつれて望遠鏡の口径は大きくなっていき、その中でそれが人類以外の知的生物による活動である事が事前に分かったため、そういう配慮をしたのである。
それはそうだろう。
いきなり月の上空に人工衛星が飛来したら、月面基地の彼らがどんな反応をするか分からない。きっと攻撃と勘違いして反撃に転じる可能性もあった。
ただ、KAGUYA-IIを派遣しなかったのはそれだけではない。
基地建設の不可解な点も人類を怯えさせる一つの要因だった。
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