第46話 鳥とイルカは数学がお好き

 パシュッ、パシュッ…!

 全身40箇所に備え付けられたスラスター達は時折火花を上げて、まるで犬ぞりのハスキー犬達のように猛り、今か今かと出番を急いている。


 しかし…まだだ。

 燃料が少ないこともそうだったが、主はまだここに危機が迫っている事に気付いていなかったからだ。

 先述の通り、ここでスラスター達を御する主とは、エースの事である。


 戦士の勘というよりは用心深さによって、彼はラプトルソルジャーと別れた後、医務室に向かわず、ウェポンベイ(武器庫)に行ってこのアーマーを着込んだのだった。エイリアンの返り血で負傷した右足はひどく痛み、しかもその返り血が何の物質か分からず体内に吸収された後に毒死するかもしれないという恐怖さえあったが、その不安を蹴散らすほどの闘争本能が彼にはあった。

「何事も無く事態が終息して、これが取り越し苦労になるのなら、そんなに幸いな事はない」と彼は思った。

 これを人間の持つ感情で現すのは難しい。

 正義感という表現は少し違う、サウロイド特有の闘志としか言いようがない。


 ともかく。

 そのようにして、ウェポンベイでTecアーマーを装備してから再び戦場であるA棟に戻る途中、まさにホール3仮設基地への連絡通路の前を通りかかったとき、エースはズシンという地響きを聞いたのだった。その地響きはもちろん、あの一匹目のエイリアンの亡骸が連絡通路の天井を突き破って月の大地に叩きつけられた事によるものだ。

 基地内の誰よりも近くでそれを聞いたエースは、迷いなくヘルメットのシールドを下ろして連絡通路へのエアロックに向かったのである。


 エースは風が吹きすさぶ連絡通路の暗闇を慎重に進んだ。

 繰り返しになるが、連絡通路は浮き輪のように内部が与圧される事でチューブを形成する仕組みの布製であり、蛇の肋骨を思わせる補強フレームが5mおきにあるものの、基本的には硬質なものではない。

 だから、ひとたび穴が開いてしまうと連絡通路からは勢いよく空気が抜け、まるで蛇の断末魔のようにバタバタと壁や天井全体を暴れさせるわけだ。


 今回、その‟蛇”はなかなか死ななかった。

 本来ならば自動的に空気の流入が止まるので、次第に‟蛇”の暴走は収まるはずだが、今回は違った。ホール1基地側のエアロックはまさに彼自身が閉じたので間違いな閉鎖されているが、きっとホール3仮設基地側のエアロックに問題があるのだろう、空気は絶えることなくいつまでも抜け続け、‟蛇”の腹を暴れさせている。


『気持ち悪くなってきたぜ…』

 エースは不平した。

 視野の八割が、バタバタと暴れ続ける床や壁、天井に占められているため平衡感覚がおかしくなりかけた。とはいえ、ここは鳥類に近いサウロイドである、なんとか耐えれている。

 エースが、というのではなくサウロイドの三半規管はとても優秀なのである。

 実際に飛行する鳥ほどではないものの、空間把握能力を司る中脳が人間より優れているのだ。



 余談だが、鳥とイルカの中脳はとても発達している。

 これはもちろん、普段の生活が陸上生物のような平面ではなく上下という概念がある立体的なもので営まれるからだ。(想像に易しいが、そういう理由で樹上生活をする齧歯類や霊長類も優れている方ではある。上下の移動が多いからだ。逆に完全に平面な、二次元的な生活をしているサバンナの動物達は軒並み赤点だ。木に登る必要のないライオンの中脳などは猫科では最小らしい)


 ところで、よく数学の定理が図形的なビジョンで説明されるのは見たことがあるだろう。

 ピタゴラスの定理(これは二次元だが)などは最たるもので、数字だけだとイメージが難しいが図形に置き換えれば納得できる…というものだ。

 このように空間把握能力は数学の発展に大きく寄与する。言い換えれば、ある生物が数字を用いるまでに進化したとき、そこから数学を飛躍させるスピードは、その生物の空間把握能力の如何によって左右されると言える。


 まさにそれを証明するがごとく、我々はこの後、イルカ人間ことディープシーライブズ勢力の物理学の高等さ(数学が目に見える形に結晶化したのものが物理であるので、翻って言えば物理学の先進性はディープシーライブズの数学力の高さを示している)を目の当たりにする事になるのだが…

 閑話休題。


 今は、エースの戦いを追おう。

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