第163話 彼女の長い一日

 人類の揚月隊はティファニー山の麓にヒビ割れのように走る渓谷、通称ムーンリバーを進んでいる。渓谷といっても地球ほどダイナミックなものではなく幅は2~3mで深さは最深部でも10m、最も浅いところは1mほどの‟小川”である。


 その渓谷を敵のレールガンを避けるための天然の塹壕にして、77名の揚月隊は進んでいるわけだが、思ったより行軍速度が出ないことにネッゲル青年はいら立っていた。


「敵に準備の隙を与えないというのが、この作戦の根幹でした」

 ネッゲル青年は早く渓谷を抜けて敵基地を急襲したいと言うが、月での駆け足ダッシュはどうしてもジャンプになるので、渓谷から頭を出す事になってしまい狙撃の危険に晒されるので隊長のノリスは否定した。

「そうだが。それで被害を出す事も避けなければな。……見ろよ、人類未到の景勝地を歩いているんだぞ」

 月の大クレーター「靜の海」を作った巨大隕石の一つが粉砕し、その破片の大岩がほぼ真横に吹っ飛んで月を削ったのが、このムーンリバーである。世界中の旅行家が垂涎の絶景の中を77人の兵士が隊伍を組んで進んでいるのだ。


 確かにノリスの言うように、鍛え抜かれた揚月隊員の中にも陶然と周囲の風景を眺めたり、ライフルのスコープに内蔵されたデジカメを構える者もいたが、ネッゲル青年はそういう人種ではなかったようだ。

「私は敵を倒した後で愉しみましょう」

「ふむ」ノリスは吹き出してしまった。「すべき絶景だのに」

「いや、どちらかというと私は」

 ネッゲル青年もさすがにこれ以上は諦めて、行軍の中で立ち止まることで自身の班がいる後列に戻った。進む列車を見送るような形でノリスの背中に嫌味っぽく捨て台詞を言う。

「この腹立たしい靴の、改良すべき点についてに刻みましょう」


――こうして77人の屈強なる兵共は予定より30分超過し、約90分かけて月の渓谷の中を15kmほど進んだ。

 それでも平均すると1kmあたり6分ペースなので驚くべき走力だが、これは彼らの全速力ではないのだから怖ろしい。高度を気にせず三段飛びの選手のように、ビョンビョンと飛ぶように走る彼ら独自の走法が使えたなら、1kmあたり2分のペースだという。だからもし、渓谷という自然の塹壕から頭を出すのも辞さずに、ビョンビョンと全速力でサウロイドの基地を目指せば、60殴り込む事ができたわけだ。


 だが人類は前者を選んだ。

 いや、そもそも目的の敵基地から15kmも遠くの渓谷の中に着陸したのはレールガンの狙撃を避けるためだったのだから当たり前だ。最初から決めていた作戦行動である。ゆえに誰のせいでもないが、結果としては……

 前者を選んだ事でサウロイド側に与えた60こそが、この後で人類に大きな損害を与える事になってしまうのであった――!


――――――

―――――

――――


 50分後…。

 場面は変わって、サウロイドの月面基地A棟。

 その司令室の中は、ようやく落ち着きを取り戻していた。オペレータ、管制官、砲術長(代理)、参謀、分析官、副司令……本来の人員が全員配置についている。万全の体勢が整うのは初めての事だった。

 そしてその顔ぶれの中には、サウロイド独自の役職であるもいた。そう、ゾフィは司令室に到着したのである。


 彼女の一日もまた大変なものであった。

 初めてホールを潜り、1/6重力に驚き、エイリアンの剥製を見、ビッグバグの剥製を見、壊された連絡通路を迂回するため月面を歩き、人類の第二波とレールガンの攻防による猛烈な花火を目撃して、ようやくここに至ったのだ。

 だが彼女の一日はまだ終わらない――むしろここからが本番だ。


『――以上が作戦だ。?』

 そのとき、レオはもっとも端的な言葉を司軍法官ゾフィに投げた。

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