第341話 蜘蛛の糸を断ちし者

 つい5日前……

 香港国際空港のレストランで、裕福な家族連れの喧騒に辟易しつつ牛肉麺ニョーロウメンを啜っていたのがまるで夢か幻かのように、ブルースはいま漆黒と沈黙が支配する月の地下洞窟の中にいた。

 地上から垂れ下がったワイヤーだけを頼りに、まるで映画「クリフハンガー」のように握力を緩めたり強めたりしながら、腕力だけで少しずつ下へ下へと降っていく……


 と、そのときだった――!


「…っ!? ゴンドラが無いぞ!」

 キャノン砲と通称される両肩部のライトで闇を押し退けた視線の前方(進行方向が下なので正確には下方だ)に、そろそろワイヤーの終端に係留されているはずの鉄の箱ゴンドラが視界に飛び込んでくるだろうと思っていたが、そうではなかった!


 見えたのは虚空…!

 ゴンドラが神隠しにでもあったようにのである


というのはどういうこと!?」

「意味が分からないぞ!?」

 アニィとハサンは同時に叫んだ。

 手はつけていないがコーヒーカップなども置かれているような快適なコントロールルームに座っていた二人も一瞬にして、ブルースと同じく暗闇の中に突き落とされたような気分になった。

 三人は愕然とし、動悸が早まり、そして嫌な汗が噴き出した。


「ゴンドラが無いって!!?」

「ちゃんと説明して!」

 ブルースの言葉で聞くしかないアニィとハサンは、説明を求めた。しかしブルースだってうまく説明はつかない。

「いや…しかし。言葉の通りだ…」

 彼はいま足を宙ぶらりんに、なんとかワイヤーを両手で握ってブラ下がっている状態である。聞いた話ではワイヤーの終端付近には留め具ジョイントがあり、そこからさらに4本のワイヤーがピラミッドを描くように伸びて人間が乗る箱(ゴンドラ)を支えているはずだが…それらは跡形も無く消え去っていて、いま彼が握っているワイヤー1本だけが蜘蛛の糸よろしく垂れ下がっているだけになっていたのだ。


 ブルースは上記のあるがままの状況を説明する。

「意味が分からない!」

 だが口下手なブルースの説明ではハサンも理解ができず、誰に向けるでもない怒りで声を荒げた。

「だが…言葉のままだ。ワイヤーが途切れている」

 可哀そうなのはブルースだ。月の地下洞窟の闇の中、1/6重力とはいえ蜘蛛の糸にぶら下がりながら非合理な文句を言われているのだから。

「ゴンドラの残骸は!?」

 アニィはハサンよりは多少マシに、建設的な質問をした。

「ちょっと見えないな…この肩部ライトキャノン砲でも闇が深すぎる…」

「千切れた箇所を見れるかしら?」

「分かっているさ。少しまて…」

 ブルースは不平や恐怖の一言も言わずに、ワイヤーの途切れた終端を目指し降りていく事になった。もうこの時点でUNSF(国連宇宙軍)の銀鷲褒章を3回ぐらい与えてもよい活躍ぶりである。


 彼はもう下ではなく、目の前のワイヤーを凝視して損傷が無いかを確認しながら慎重に下って行った。

「妙にワイヤーが揺れるからおかしいと思っていたんだ。重いものがぶら下がっているにしては、揺れすぎだった」

「なるほど…」

「真っ暗で揺れているかはよくわからなかったがな…」

 彼の鋭敏な三半規管のなせる業である。


 そうして彼はワイヤーの損傷具合を確かめつつ降りていき、いよいよブランブランと揺れている残りのワイヤー長が50cmというところまで来ると「もう伝声管はどうでもいいだろう」と判断して、左手でワイヤーと伝声管を力強く鷲づかみにし体を安定させた。そして左手一本でぶら下がりつつ、まるでオランウータンが華麗に行うように、もう片方の右手は思い切り下に伸ばし、膝の辺りに揺れている途切れたワイヤーの先端を掴み調べた。

 落ちたら真っ逆さまなのに、よく恐怖に打ち勝てるものだ――と思った矢先、別の恐怖が彼を撃ち抜いた。

「……!!?」

 沈黙越しにもブルースが息を呑んだのに気づいたアニィはすかさず

「ど、どうしたの!?」

 と訊いた。


「…いいか。これから言う事に驚くんじゃないぞ。俺は冷静だし、お前達にも冷静さを求めたい」

「わかったわ。言って」

「そうだ。言ってくれ。ブルース」

 ブルースは右手で掴んだワイヤーの先端を顔の前に持って来、でしっかりと照らし出してはあらためながら呟いた。

「…ワイヤーはされている。千切れたというより切断だ」

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