第342話 シャドウ・ダイバー(前編)

 月の地下洞窟に戦慄の声が響いた。

「…ワイヤーはされている。千切れたというより切断だ」


 ブルースは地上の縦穴からこの地下の大空洞へと垂れ下がる昇降式エレベーターリフトのワイヤーをつたい、まるで消防士の訓練のように腕力と握力だけで降ってきが、不思議な事にワイヤーの先端にぶら下がっているはずのゴンドラは無く、ワイヤーは途切れていたのである。


 もちろん、地上のコントロールルームにいるアニィ(アヌシュカ中佐)とトム大尉から高出力通信機トランシーバー越しに怒涛の質問が飛ぶ。

「ゴンドラの残骸は!?」

「そうだ!ゴンドラは最終的に地底洞窟の下部ゆかに着底するはずなんだ!そうだ」

 トムは、今日赴任してきたばかりで、まだ地底に潜ったことのないブルースに説明してやった。

「いいかブルース。そのリフトは井戸のようなものだ。ゴンドラは地上から降りていき、最後は月の地下洞窟の床に着底するんだ。つまり君の眼下には洞窟の底があって、仮にワイヤーが切断されていたとしても、ゴンドラはそこに転がっているはずだ!」

「いえ!それよりも」アニィが叫んだ。「よ!」

「あぁ。だが底は見えないな…」

 ブルースは、分かっているよ、と思いつつそれは指摘せずにただ頷いた。

「このキャノン砲みたいな両肩のライトなら見えそうなものだがな…いくぶん闇が深すぎるようだ」

「ああ…。それは月の土レゴリスが舞っているからだろう…そこは星が生まれてから一度も変化を経験していない原初の地だ。…言うなら乾燥しきっている」


――いや…実は洞窟内の異常な暗さには理由があった

――だが、それを彼らが知るのは20分ほど後のことである…!


 と、そのときアニィは別の推測を挙げた。

「ゴンドラと床が無い理由だけれど、そもそもワイヤーが千切れたのが、全体の中盤あたりなのではないかしら!?」

「千切れたじゃなく、だな…そして」

 ブルースはアニィの発言を訂正しながら続けた。

「そして、俺は間違いなくワイヤーの最下部にいる。の深度まで来ているのだ。なぜなら、ちょうどいま俺の顔の横にある辺りでワイヤーの色が変わっている」

「色が変わっている…!?」

「いま両手をバンザイする形でワイヤーにぶら下がっているんだが…手の辺りのワイヤーは滑車との摩擦で磨かれ輝いている。しかし一方で顔の前にあるワイヤーはレゴリスで汚れている」

「……!」

「これれはつまり……そこにいま俺はいる、という事だろう?」

「た、確かに…」

「よくパッと思いつくな…」

 トムは「よくパッと思いつくな。ただの理学士トレーナーが」と言いそうになって、後半だけは我慢した。

「いやぁ、村の井戸のロープでも同じような事が起きるのさ。桶を引き上げたとき滑車に巻き込まれる部分の縄は藻が少ないが、桶の少し上の縄には藻が着くんだ。手入れをしないとな」

「なるほどな…台湾ではまだ井戸を?」

「まさか。酔狂でんとうで残されているだけさ」

 ブルースは少し吹き出し、それにより落ち着きを取り戻した。余談も無駄とは言い切れないものだが

「ともかくよ!‟ブルースは本来ならリフトが着底すべき場所にいる” それを前提に考えてみましょう」

 アニィは、休みなく動きまわるカラフルな小鳥のようにそれを断じた。

「つまりよ!私達のリフトが上下する軸、その真下で落盤が起きて洞窟の床に着底していたゴンドラが落ちていったわけだわ。氷の湖が割れるように」

「なるほど、ゴンドラの重さで床が抜けたわけですか」

「ええ!」

「その洞窟の下に別の地下空間があるのかもしれない」


 アニィとトムの推測は現実的で状況を言葉だけで聞いた誰もが(つまり私達も!)納得できるものであるが、現場のブルースは目で見ているぶん的確だ。

「いやそれではワイヤーが切られている説明がつかない。いいか、お前たちは信じていないようだが誇張じゃないんだ。千切れたんんじゃなく、んだ」

「ブルース…!」

 アニィは、不吉な事を言わないでくれ、というように焦燥し辟易して言った。

「だってあなた。月面で使うリフトのワイヤーが何の素材で作られていて、過重によってどう千切れるかなんて知らないでしょう?想像よりスパンと断面がきれいに千切れるものよ?」

「……まぁ、それはそうだが。切られているのは明らかなんだ」

「……」

 これ以上は水掛け論だ。

 アニィもトムも返すべき言葉が無く、しばし沈黙が広がった。だが、ブルースの握力も、そして次元跳躍孔の電波減衰に打ち勝つ超高出力トランシーバーのバッテリーも無限ではない。

 ぼーっとしている場合ではなかった。



「…ワイヤーはあと、どれくらい伸ばせる?」

 ブルースが質問した。

「その‟クレパス”に降りるつもり!?」

「いや違う。ゴンドラが在るべき場所には穴が開いているが、その先には本来の洞窟の床が見える。そこに降りようと思う」

「どうやって?」

「ターザンをやる。ターザンのように体を振り子のように振るのだ」

「……」

 このとき、アニィの中で邪悪な思考が巡った。

 言ってしまえば彼女は「その提案を断るのは損だ」と直感したのだ。ブルースの安全を期すなら「いったん戻れ」と言うのが正しいのは当たり前だが、もし彼を引き上げたあと調査隊を組織し、ゴンドラを失って垂れ下がっているだけのワイヤーを頼りに複数の人間を洞窟に送り込むのはかなり面倒だ。下手すれば地球から新しい装備を取りよさねばならないし、何より「安全性」という監視の目がつく。

 それならいま彼の決死の行動を黙認してしまい、洞窟なかの状況を知れてしまえば、こんなに手軽なことはない。

 …もっと言ってしまおう。


 地球の工事現場とは違う

 1人が死んだとことろでそれほど大きな問題にはならない。


「どうだ?」

 ブルースが重ねると、トムもまた彼女の答えを促した。

「アニィ?アヌシュカ中佐?」

「…OK。調あるわ。やってちょうだい」

 アニィは調査員のせいにして、GOサインを出した。

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