第343話 シャドウ・ダイバー(後編)

 月の地下洞窟に、がいるかもしれない。

 この地上から垂れ下がる昇降式エレベーターリフトのワイヤーケーブルを切断した、何かモンスターがいるかもしれない。


 ――だというのに

 なぜかブルースは「ワイヤーを引き上げてくれ」と叫んで、逃げ戻る気にはならなかった。それはよく言う、恐怖心に好奇心が勝ったというのでもない。自分でも不思議だが、やってやるぞいう妙な闘志が心にみなぎっていたのである。

 恐怖も緊張もある。だが、5万のペルシャ軍に挑まんとす300人のスパルタ人のように、どうにも辞めようという気にはならなかったのだ。


――――――


「…OK。やってちょうだい。調査員の5人はまだ生きているかもしれないし」

 ブルースの、もう少しワイヤーを降ろせ、という申し出をアニィは了承した。

「たしかワイヤー長は、あと8mほど余裕があったはずね?」

 アニィが訊ねたのはリフトの制御室にいるトム大尉である。この場にはいないがブルースのを握っている彼は集中を解いてはおらず、すぐさま「ええ。よくご存じで」とコントロールルームのスピーカーに声が戻ってきた。

「よし…」

 コントロールルームに響いた声は、アニィとハサンが使っている高出力トランシーバー越しにブルースにも聞こえたようだ。周囲が真っ暗なので彼の聴覚はいつも以上に冴えわたっている。

「では、下ろしてくれ。周囲は何も見えないが…8mも降りれば何かが見えるかもしれん…」

「わかったわ。トム、やってちょうだい」



 ウィーン……

 吊るすべきゴンドラが無く軽すぎるのか、リフトの巻き上げ機モーターは妙に高い音を立てつつ回転し、残り少ないワイヤーを吐き出していく。

「……」

 ブルースは降ろされながら左右を見渡すが、何もみえない。

 よほど広い空間なのか、首の動きと連動する肩部の二門のライトを持ってしても彼を覆う闇はチョコレートのプールのように濃く、彼は自分が右を向いているのか左を向いているのかすら混乱し始めていた。

 頭上を見上げれば、小さく小さく点のようになっている入り口の穴が見えるが、足元を見下ろすとやはり視界は闇に包まれた。ゴンドラが着底するはずの場所にできた裂け目クレパスは一体どこまで深いのだろうか?この縦穴は地獄の底まで繋がっているようである。


 と…

「む…? おぉ…底が見えたぞ」

 足の真下は深いクレパスになっているのだろう、相変わらず真っ暗だがその少し前方にぼんやりと光を返す面が見えてきた。地下洞窟の底面ゆかに違いない。

「本当!?やったわ」

「うむ…まさにゴンドラが着底していた場所だけが抜け落ちたようだ。落とし穴のようにな」

「それが分かっただけでも十分だ。引き上げるか?」

 とハサン。

「いや、もっと下げてくれれば、地下洞窟の底に着地できそうだ。をすればな」

「わかったわ。このままいきましょう!」

 アニィはブルースの意気込みに頼る形で、ある種の冷酷な決断を告げた。


 ウィーン……

 さらにブルースは降りていく。

「心理状況は?大丈夫か?」とハサンが訊ねた。

「心拍数は80。かなり落ち着いている…」

「真っ暗な中で、よくまぁ…さすが格闘家ね」

「しかし両手でワイヤーにぶら下がりながら、心拍数が分かるのか?」

 ハサンは少し笑いまじりに訊き返した。

「もちろん。体との対話は東洋武道の基本だ。君達にも教える」

「そう。期待しているわ」

 ブルースの、死ぬつもりはない、というセリフにアニィは救われる想いであった。


 さて。

 そんな与太話をしている間に、ついにリフトの巻き上げ機モーターはすべてのワイヤーを吐き出した。ブルースの体の一部はクレパスの中に入っていて、洞窟の底と彼の膝がちょうど同じぐらいの高さになっていた。

 さすがにこうなればライトでよく見えた。クレパスは半径4mほどの円形のようで、つまり彼が着地したい洞窟の床も4m先である。

「よし。届きそうだ」

 あとはこれでワイヤーを十分に振り子運動させてからジャンプすれば洞窟の底に着地できるだろう。暗闇に向かって飛び出す恐怖にさえ打ち勝てば、中学生の男子でも攻略可能なアスレチックのレベルである。

「ブルース、確認よ。アナタが跳び降りたら、一度ワイヤーを引き上げるからね」

「ああ分かっている」

 彼が洞窟の様子を確認している間、地上のアニィ達はワイヤーを一度引き上げて臨時のゴンドラをこしらえる……そういう算段であった。

「さ、トム大尉?」

 コントロールルームのアニィが、リフトの制御室のトムに呼びかけるとすぐさま「モーターの固定完了」という返答があった。振り子運動に耐えられるよう、モーターをガッチリ固定したというわけだ。

「いけるわ、ブルース」

 成功する事がなのでアニィは、がんばって、とは言わなかったがそういう想いを込めて強く言い放った。

「ふっ… じゃあ体を揺する」

 ブルースもそれを察してか、鼻息だけ笑って気合を入れる。


 グゥン…グゥゥン…グゥゥゥン!


――やれやれ

――俺はいったい何をやっているのか


 月の地下に広がる大洞窟の闇の中で、ターザンごっこをしている自分に笑ってしまいそうになりながら、ブルースは体を前に後ろに反らしては、徐々に振り子の共振を大きくしていく…!

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