第340話 物質のように濃い闇を潜って(前編)
月の地下の大洞窟…
そこに至る長い縦穴を往来する
地上から縦に40mほど下降した洞窟の
なお、いまリフトのモーターにかかっている加重は40メートル分の鋼鉄のワイヤーの重さだけなので、ゴンドラが着底しているのは間違いないはずなのだが……?
――――
「俺が、地下に降りよう」
ブルースが自薦した。
「しかし、縦穴の深さは40mだ。入り口の穴は直径4mしかないが、地下洞窟を断面図で言うと壺のような形になっている。マンホールの縦穴のように円柱の壁がずっと傍にあるわけじゃない。足を突っ張ったりはできないぞ?」
リフトの上げ下げを任されているトム大尉が、今日赴任したばかりのブルースに穴の下がどうなっているかを説明してやった。
だがブルースは頷くだけだ。
「…もちろんワイヤーを伝っていく」
「握力が持つか?」
「ああ、俺は月に来てまで4日目だ。ここの重力ならスパイダーマンのように動ける」
「……なるほど。アヌシュカ中佐、どうします?」
トム大尉は前向きな声色で「なるほど」と頷くと、最後にアニィに決断をゆだねた。
「そ、そうね…」
アニィは「真之かボーマンがそばに居てくれたら」と一瞬不安げな表情を浮かべたが何とか持ちこたえて、その逡巡を二人に悟られずに続けた。
「…分かった!
彼女はトム大尉の肩をちょんと叩くと、その手でブルースに手招きをした。
「ブルース、ついてきて。月面服に着替えるのよ。ライトやナイフ、高出力トランシーバーにピッケルに小型の油圧ジャッキ、この基地で用意できる最高の装備をアナタに託すわ」
「ああ…そうか」
「あ、あと敵襲というのは誤報に思うけれど…銃ももちろんよ」
ブルースが微かに不安と不満を混ぜたようなスッキリしない顔をしたのに気づいたアニィは、安心させてやろうとつけ加えた。しかし
「いや…いいんだ」
ブルースが直感的に欲しいと思いついたのはトンファーであった。
もちろんそれは、火星でサーフボードが欲しいと
「……」
「何よぉ? 確かに
「そうじゃない。いいんだ」
「え、じゃあ何?」
「笑ってしまうような事を考えていた。無視してくれ」
「そうなの?」
ブルースの何かひっかかる表情の意味をアニィは測りかねつつも、今はお喋りをしている場合ではない。
「ま、いいわ! じゃ行きましょう!」
彼女は吹っ切るようにエアロックの扉を開け放ち、二人はいったん装備を取りにコントロールルームに駆け出した。
――――――
―――――
――――
闇が物質化したような漆黒の湖に、ブルースは潜っていく…。
「太い方は握るなよ!そっちは伝声管だ」
「ああ…さっき聞いた」
「トランシーバーの調子は良いようね?」
「ああ…」
ブルースは消防隊員の訓練のように上から垂れ下がったワイヤーを
たしかに縦穴は研究者の言うように、断面図で考えると壺のように入り口からギュゥンと広がっているようで、最初は縦穴の円柱を作る壁が近くにあってライトの光が帰ってきたが、だんだんその光も拡散するようになってしまい、いまや深海に潜っているようだった。
闇というより黒いゼリーの中を降りていくような錯覚を覚える。圧倒的な開所であるはずだが閉所恐怖症にでも陥りそうな不思議な感覚だ。
重力は1/6だが、握りやすい縄ではなくワイヤーなので指先の疲労が激しい。
「重力は1/6だが、空気抵抗が無いので、終端速度はむしろ地球より早い。落ちたら死ぬぞ」
第二基地の設備(ドーム内の気圧やソーラーパネルの向き、浄水装置の稼働などだ)を管理するコントロールルームには、アニィが二週間後に地球に帰った後にリーダーになる予定のハサン中佐がいた。ハサンもまたアニィと同じインド系の男だが、これに特に深い意味はない。確率論としてインド人の月面駐在士が多いというだけだ。2030年代の主役はインドなのである。
「いや、たぶん大丈夫だ」
落ちたら死ぬぞ、というハサン中佐の忠告に対しブルースは首を振った。
「深さ40mと言ったな、それならもう地面は近いはずだからな」
「なに?人力でそんなに早く降りれるものか?」
ハサンは驚き、一方でアニィはとてもチャーミングに吹き出した。
「そうでしょうね。体を見ただけだけど、ブルースは普通じゃないわ」
「握力はそうでもないさ…」
無骨なブルースも褒められれば嬉しいようで、すこし謙遜してみせた。ブルースは、両肩に装備されたキャノン砲のようなライトすら無力とする圧倒的な暗闇の中を潜行しているが、この高出力トランシーバーでコントロールルームと繋がっているおかげで、ホラー映画を見ている程度のストレスレベルを保つ事ができていた。
できていたが…
「なに!!?」
彼の油断した隙を襲うように、眼前に驚くべき光景が飛び込んできた!
「リフトが無いぞ!」
――リフトが無い!
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