第189話 心に収斂進化は起きるのだろうか?

『エース、あなたバカね。魚類も哺乳類も血は赤いのよ。血が赤いってだけじゃ敵の正体のヒントにはなりはしないわ』

『なぁんだ、そうなのか』

 エースは撃たれた左肩をさすりながら、降りしきるを見上げるように天を仰いだ。2つのサピエンスの遺体からスプレー状に吹き上がる血液は月の低温で瞬間的に凍結させられ、細かな雪となってゆっくりゆっくりと舞い落ちる。その雪の結晶は細かく、また重力が弱い事もあって、雪というよりは濃霧のような光景を作り上げていた。

 赤い霧である。視界は1mも無かった。


『ところで大尉、敵のもう一人はどうなっている?悠長に話している場合か』

 通信機越しに副司令が、なかなか的を射た指摘をしてきた。我々もそれが気になるところである。

『いえ…私はいまんですよ』

『どういうことだ?』

『私の見ている風景を見せてあげたい――だって何にも見えないんですよ?視界は真っ赤だ』

『つまり闇雲に動かない方がよい、という事ですね?』

『そうだ、レオ』

 エースは赤い霧の中に佇み、不動を決め込んでいたようだ。闇雲の字のごとく、視界が確保されていない状況で無為無策に動くのは危険だと彼は考えたのだろう。

『では、しばし…待ちましょう』


 司令室としても音声通信しか通らず、状況が分からない以上、現場のエースに任せるしかあるまい。

 そうして1分ほどの沈黙と安穏が続いた。

 エースは赤い霧で見えない地平線の一点を見つめながら、独り言を呟く。

…』

 エースは自分と死闘を繰り広げた最後の生き残り(ネッゲル青年)に妙な親近感を覚え、もう攻撃するなと嘆願に近い警告を行った。自分が逃走した距離からすると、その最後の一人はこの血の煙幕の外にいるはずである。仲間二人が機械恐竜テクノレックスにやられた場面は見ていないだろうが、十分な、あるいは自分達サウロイド以上の科学技術を持った霊長だけに通信機は充実しているはずなので、目視でなくとも味方が死んだ事は分かっているだろう。

『さぁ…やっこさん、どうするよ?』

 もう攻撃はするなよ――エースは今一度、祈った。


すこし、霧が収まってきた。

司令室そちらからは見えないか?敵の姿が』

『いや、むしろ霧の範囲が広がって見失ってしまいました』レオではなくオペレータが応えた。エースの周りの霧は薄まったが、逆に霧の範囲が広がっているようである。『貴殿の姿も全く見えない』

『まぁ…もう少し待つさ』

 最後の一人が撤退するというなら、あとはクリムゾンを渓谷の底の敵部隊に突撃させるだけだ。


 さらに時間が過ぎた。

 月の重力でゆっくりゆっくりと血の雪は降り、そして灰色の地面に積もっていった。


 赤い雪が、まったく溶ける様子もなく(というか一生、溶けないだろう)ビーズをばら撒いたように月の大地を薄く埋め尽くしたころ

『…賢明な判断だ』

 エースは動き出す。最後の生き残りが攻撃して来ないと見て、自分の安堵を隠すように皮肉っぽく敵を賞賛した。視野は依然として真っ赤だったが、視界3mほどまで回復している。

――もう敵は来ないようだ。谷底の仲間の方へ逃げ帰ったのだろう。


『よし、クリムゾンGO』

 主(キング)を守るのにビショップはもう要らない。そう思ったエースはクリムゾンに突撃の指示を出した。本来は敵隊列のうち冷静で組織的な抵抗を試みる箇所に投入するつもりだったが、仕方が無い。肩を負傷していたし、今からまた渓谷の淵に移動して谷底の様子を確認するようでは機を逃してしまうだろう。

『いけ、クリムゾン。任せる』

 ピピ、という素っ気ない電子音によるクリムゾンからの返答があった後、赤い霧のベールの向こうに見えたクリムゾンの影絵シルエットは去って行った。

『いけいけ、好きに暴れろよ…』

 エースはその影を見送った後、血の靄の中で立ち尽くしつつ溜息を(サウロイドのため息は逆なのだ。気嚢を持つ肺は吸う方がリラックスになるのである)。

 

 すぅぅ……。


 長い闘いが終わって、余裕が出来た脳の中ではが噴出した。

 恐怖や悔恨、怒り、そして敵への多少の哀れみ…。

 「心」というものに収斂進化が起きるのかは分からないが、一つ言えるのは‟人間と何も変わらない感情”が彼の中で渦巻いた事は確かである。

 もしサウロイドの世界にプラトンが居たのなら、ここで「心こそがイデアだ」と悟ったかもしれない。つまり「コップ」を見たときそれを「カップ」とするか「ジョッキ」とするか「ビーカー」と呼ぶかは人に依って変わってしまうため、同じ人類の中でもコップのイデアは辿り着く事はできない。相手が宇宙人なら尚更だ。小型の宇宙人なら「コップ」を「湯船」と言うだろうし、水中に住むイカ型の宇宙人ならそもそも「コップ」を理解できないだろう。

 しかし「心」は違う。「心」だけは、全ての・あらゆる・知的生物にとってそれ以上に分割不能で、それ以外の反証を許さない確立された定義なのだ――。

 

 すぅぅ…。


 を証明するように、エースはまるで人類と同じような感情によって心を満たしていった。そして……

『やれやれ、終わったな』

 人類よりもっとゆっくりと、たっぷり息を吐いて彼は心の再起動を試みた。いまは月面に独りぼっちで正体の分からない敵と肉薄している状態なのである、哲学にかまけている暇は無かった。だから

『い、痛ててて…ちくしょう』

 まず彼が最初に行ったのはだった。

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