第190話 原罪。月面のカインとアベル(前編)

 心に収斂進化が起こるかは分からないが、それを証明するように恐竜人間サウロイド(正確には鳥人間)であるエースの心は、猿人間サピエンスと同じ機微を描いていた。具体的にいえば――

 戦いの後の虚脱感、安堵と妙な苛立ちが彼の心に波涛していたのである。しかし哲学にかまけている暇は無かった。彼は心を再起動すべく

『痛てて…ちくしょう』

 まず最初に、粗暴な戦士としての芝居を自分のために行った。


 それから彼は人類(ネッゲル青年)に撃たれた肩を押さえながら、血の霧のと歩き出した。そこは機械恐竜テクノレックスに食い殺された(実際は顎ギミックがプレスしただけだ)敵の死骸が転がっていて、それがこの血の濃霧を作る間欠泉になっているはずだからだ。

『大尉、酸素はあと1000秒です』

 ヘルメット内の通信機からオペレータが警告した。

『ああ、走り過ぎたな。それに穴も空けられた。痛てて…』

『もう戻れ、大尉。よくやった』今度は副司令である。『謎の敵の死体を回収してな』

『ええ、いま死体に向かっているところです』

 分かり切った事を言う…とエースは辟易しながら応答した。しかしその副司令の小言も、月面でひとりぼっちの心細さを慰める役には立った。『もう少しで、やっこさんの面を拝めますよ』

『どんなヤツらだろう?』

『さぁ…。少なくともをした妙な動物です』

 人間のような膝(後ろに折れる関節)を足の中心に持ってきている動物は、むしろ生物全体を見ても珍しい方だ。ダチョウ(鳥類)もカンガルー(有袋類)もウサギ(齧歯類)も犬(食肉目)も、そしてサウロイド(恐竜人間)も、膝に相当する足の大きな関節は手前に曲がるようになっている。

『走るのは遅いだろうな』と副司令。

『でしょうね』

『水辺で進化したのかしら?』

 ゾフィが口出しした。司軍法官だという自覚がないのだろうか?

『あり得ますね。水辺の動物は頭が良くなる傾向があります』

 とレオも続いた。通信機越しに聞こえる司令室の他愛もないディベートは、月面に独りぼっちのエースの心をラジオのように暖める。

『ワニは違うだろ』

 エースもまた指摘ツッコミする。

『あは、確かにアイツ等は何にも考えてないか~』

『変な進化をした動物ですね。頭は良いようですが…』

 と、そんな無駄話をしながらエースが死骸に迫ったときだった――。

『!!』

 背中にドンッという太い衝撃を受けた!

 その衝撃はパンチとかキックといった一点に注がれるたぐいのものではなく、体全体を満遍なく揺さぶってなお余りあるものであった。その軽トラックにぶつけられたような衝撃に彼が前方に倒れると、それと同時に振り向こうとした首を何かが。まさか未来の月面の戦いにこの言葉を使うとは思わなかったが、それは典型的で紛れもない「ヘッドロック」である。

 エースは背中から押し倒され地面に顔を押しつけられてようやく、それが敵の生き残りによる襲撃だと気付いた。それぐらい素早い体術だったのだ!

『油断したっ!』

 月なので背中にのし掛かる敵の体は重くはなかったが、敵の腕は首を、足は足を蛇のように巧みに締め上げていて容易に立ち上がる事ができなかった。あの例のが背後から股間の前に伸び、そこで折れて股の下に差し込まれる。


――こういう器用な事ができるのか!


「マズい…』

 エースは危機を悟る。

 背後から組み付かれている事もそうだったが、締め上げられている箇所がを触覚で分かったからだ。

 つまり!敵のもう一本の腕がフリーではないか!


 ザクッ!

『がはっ…!!』

 後ろ脇腹辺りの装甲の隙間にナイフが突き立てられると、エースの体は理性では制御不能になって動物ようにバタバタと反射行動を示した。

 一方―――!

「ぬ…うぅぅん!!」

 襲撃者(もちろんネッゲル青年だ)は対照的に理性行動でもって、たうる限り力を絞り出して相手を抑え込んだ。背中をとって右腕で首を締め上げつつ、左手でナイフを突き立てるネッゲル青年はヌーを捕らえたライオンのように熱く冷静だった。その極地と言わんばかりに、彼は。「死ね!」というのは気持ちだけで、無駄に叫んだりはせず、ともかく歯を食いしばって暴れる獲物を全力で押さえ込むだけだ!


 その原始的な、野蛮な、しかし生きたべるためでなく人の感情によって行われる殺人行動とは、まさに原罪。

 昇りかけた地球を背景に灰色の大地で戦う二人の様子は、月という穢れを知らなかった星で行われる初めての殺人。

 まさにカインとアベルだった。

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