第500話 時空検閲官の部屋(中編)

 その部屋は白い光で満たされている――。

 にも関わらず部屋の四方を囲むべき壁は見えず、天井も果てが無い。

 「2001年宇宙の旅」の中でキューブリックが創造した「精神世界を“白い部屋”として描写する手法」は、それ以後いろいろな映画でオマージュ……というかパクられてきたが、いまラプトリアンのマリー少尉がいる空間もまさにそれだった。そうとしか説明のしようのない空間だった。

 恐竜が闊歩し、うっそうとシダ類が繁茂したオーワ(アマゾン)の次元跳躍孔ホールを潜った先の世界は、一転、この地平線の彼方までまっ平らな白い部屋だったのである。


『……?』

 床を触れば冷やりとした人工物の感触が返ってきて(大理石か、そういう加工をした金属のような触感だ)ここが夢の中という感覚はない。目の前の薪ストーブはパチパチと小気味良い音を上げて熱を発している。

 間違いなく自分は覚醒している――とマリーは思った。

 むしろトリゴロシの実の麻酔を契機に、懲罰房で嫌と言うほど眠ったので調だ。ここが夢とか幻覚にはとても思えない。凍傷になりかけている右足首の刺す痛みも、折れた左足首の鈍痛も、部屋にかかる重力加速度も、この部屋に満たされた空気の味も、そしてその空気を肺が吸収する様もシャープに感じられる。

 すべて清浄で正常だ。

 おかしいのは、この地平線までただただまっ平らであるという部屋そのもの存在であった。



――――――


『…まず、ここはどこなのかしら?』

 マリーはで訊ねた。

 だが、声の主が「帰っていい」といった事を言うからにはこういう情報もあっけなく教えてくれるかもしれない。

『まず、生きて帰ることに喜ばないのか?』

 声の主はわざと「まず」をおうむ返ししてきた。そういう嫌味ジョークもできる相手のようだ。

『この跳躍孔ホールの向こうは、私を殺したくてならない猿人間の巣窟なのよ?』

 マリーは何もない部屋でどこに向かってしゃべるべきか分からないので、仕方なく目の前の薪ストーブに対して話しかける。薪ストーブのほかには、不動で立っているゴールデンスキンしかいないので仕方ない。

『知っているでしょ?』

『ふっ…ははは』

 しかし声の主は笑うだけだった。どういう意味の笑いだろうか?

猿人間かれらはどうしてもラプトリアンを殺したいらしいわ。ね?』

 サウロイドの言葉を分からないゴールデンスキンは、ただ「ね?」と視線を送られたことにピクリと小さく反応しただけで姿勢を崩さなかった。鍛え抜かれた体と金色の肌のせいで彫像のようである。

「……」

『まぁ、その事は何もしてやれんが』

 ゴールデンスキンの沈黙を待って声の主が言った。本当に薪ストーブが喋っている気分になるから不思議である。

『ここがどこか、という最初の質問には答えよう。大した事実ではないが』

『大した事実ではない…?』

『いや君たちにとっては大した事実かもしれないが、少なくとも君の目の前にある次元跳躍孔ホールが大したものではないのは確かだ』

『どういうことよ?』

『次元跳躍孔にもがあるのだ。金属の中にも貴金属と卑金属があるだろう?』

『……はぁ…』

『では「大した事ない」ではなく「一番ありふれている」と言い換えようか』

 ふぬけた相槌しかできないマリーのために“薪ストーブ”は説明した。

『宇宙がだった頃に隣り合っていた二つの空間が、いまだにねじれたまま残る事がよくあって、それが君の前にある次元跳躍孔なのだ。ぐしゃぐしゃになったロープを引っ張ることを想像してくれ。基本的にはスルスルと広がっていくが、ロープのどこかで結び目としてねじじれ残る事もあるだろう?』

『なるほど』

 イメージだけは分かる、とマリーは頷いた。

 しかし同時に、それで本当の理解に至ったと思うほど彼女は愚かではなかった。エラキ曹長もそうだったが、どうやらラプトリアンという種は己の無知を認める謙虚さを生来持っているようである。初等力学の例題の一つも解けないくせに、知ったように量子力学を語ってしまうとは違う。つい知ったかぶりをしてしまうホモサピエンスとラプトリアンは品格というものが違うのだ。金属と同じ“貴賤”の差である。

『で、教えてくれない?』

 マリーはもう、薪ストーブを相手として話しかけることにした。またそんなストーブのおかげで右足の凍傷はいくぶん良くなってきた。毛細血管が凍結破裂したせいで青く鬱血しているが、太い血管は血を送っているようである。

『これ以上説明されてもね、私は科学者じゃないから分からないのよ』

『ずいぶん、ヒントを与えたつもりだがなぁ。ではこうしよう』

 と薪ストーブ応えた。

からなら、ここがどこか、を想像できるんじゃないか?』

『状況?』

『君は馬鹿ではなさそうだ。だから事前知識を必要とする科学的ヒントは無駄だとしても、なれば状況から考える事はできるはずだ』

『状況…って言ってもね…』

『ルールは二つだ。①次元跳躍孔は(x,y,z,t,p)のうち。たとえば時間次元(t)がズレているなら、位置(x,y,z)と確率(p)は同じになる。そして②同質のズレ方をする跳躍孔は近傍には存在しない――さぁ、どうだ?』


 薪ストーブもとい声の主は素直に教える気はないらしい。よほど暇なのかマリーと我々に推理を要求してきた。


『そうね…』

 どうせコナン・ドイルが答えを教えてくれるのだからと推理するのを放棄することは、シャーロックと旅するのを放棄することと同じである――とマリーが思ったかどうかは分からないが彼女も意外に嫌いではないようで、頭を肩に乗せるという人間でいう腕組みの姿勢をとって呟きはじめた。

『普通に考えたら、確率次元が違う別の地球だと思うわ。だって猿人間がいるんだもの』

『それは②に抵触している』

『あ…そうね。月面にある次元跳躍孔と同じになるわね』

『まぁもっともさらに別の確率次元の地球、という事もあり得るが…?』

『別の確率を歩んだ地球で、そっくり同じ猿人間が進化発生するはずはないから、それは駄目でしょう?』

『その通り』

『そうなると、ここは未来ね。この白い部屋も説明がつくし、あなたがサウロイドの言葉を喋れるのも納得がいく…』

『そう仮定するとどうなる?』

『えっと時間次元がズレているわけだから、確率と空間は同じ。…となるとここはオーワの森の中…! そうか移動なんかしていないだわ!』

 マリーはひらめいたぞ、とばかりに声を大にしたがそれはに過ぎなかった。

『そうなると、猿人間はどうやって来たんだ?』

 と薪ストーブは笑った。

『……たしかに、そうね』

『ははは。まぁよく考えてくれたよ。それにこれは問題が良くなかった。なにせ俺は跳躍孔を2回潜っているからな。そのトリックを解くのは酷と言うものだった』

『2回ですって…!?』

『ああ。だが、嘘のヒントは言っていない。君の目の前にある次元跳躍孔は最もありふれた位置次元共役タイプであるが、しかし同時にそれは

『……もう、何がなんだか…?』

『ははは、ラプトリアンにしては表情が豊かだな。では俺の正体を教えてやろう』

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