第522話 月を封じる石棺へ(前編)

 マリーはと、シロイルカから授けられたデバイスを口に咥えて、そのスイッチをONにする。


 デバイスはタバコの箱を一回り大きくしたぐらいの形状とサイズだ。全面が四重のフィルムモニターとそれを制御する視線感知カメラ(カメラといってもレンズはない。……どころか、カメラはデバイスのにあった。自分自身のボディを透過する赤外線を使うためデバイスの表面に受光器おうとつがある必要すらないのだ。iPhone20ぐらいになったら、こうしたツルリとした外見になっているかもしれない。赤外線で外界を感知しそのデータをもとにAIで色彩を復元するのだ)で包まれていて、観測者の目に対して適切な映像を描画することで、自らを透明に見せる能力を常時発動させている。なお、フィルムモニターは四重なので合計四人までの人間には透明に見せることができだが、もし五人目が現れたらおしまいだ。五つ目の視線に向けては適切な絵が作れないため、その人は透明ではあるが周囲の風景を歪めさせている「クリスタルづくりの豆腐」を見ることになるだろう。


 またデバイスは一見…いやすると前後左右上下はないように感じるが、ある面だけは唯一の物理的なボタンがあった。これが喉側になるように咥えるというのが使用方法その①である。そして周囲のモノをどけて可能なら自らを動けないようにする…というのが使用方法その②だ。最期に、喉側にあるスイッチを舌で押し込むのが使用方法その③である。


――――――――


 自らを椅子に縛り付け、よだれを垂らす(デバイスを咥えるせいだ。特にラプトリアンは頬が無いので涎が止まらない)というのは、かなりサイコな見た目だが畏れる必要はない。それは怪しい魔法でも狂信の神具でもなく、その”文明の利器”の使い方が単にそうだったというだけである。それを言うならコンタクトレンズだって十分、サイコパスな文明の利器だろう。

 ともかく、そうしてマリーは舌を押し込みスイッチを入れた。と、次の瞬間。


 ――ビクン!!


 彼女の体に衝撃が走った。

 授業中や電車の中での居眠りから飛び起きるときのように、脳から発された津波が体という防波堤にぶつかる!体の内側から屈強な男にタックルされたようだった。

 と、同時に今度は激しい悪寒と吐き気が彼女を襲う。

『ぅ…!』

 背骨と胃がブルブルと震えるような感覚であった。

 シロイルカの話に聞いていた通り、これはかなりタフな装置である。しかもこれは終わりではない。注射のように刺された瞬間だけが痛くて徐々に収まるような代物ではなく、このデバイスではむしろ神経の大洪水の中へ自ら理性という船で漕ぎ出す必要があるものなのだ。


『うぅぬ…ぐ…ぐぅ…!』

 だんだんにお気づきだろう――。

 そう、このデバイスは他人の脳をハッキングする装置なのだ。言い換えると遠隔地の神経系をスクリーンにして、自分のそれを投影するようなシステムだ。ご存じの通り脳細胞(ニューロン)は電気信号でもって連携しを形成しているが、このデバイスが発する電磁波は絶妙にニューロンのナトリウムチャンネルを励起することで電気信号を発生させ(Suicaカードが改札機からの電磁波で励起され一時的に電源を得て、電気信号データを発信するように)さも自分の脳細胞が発した電気信号であるように錯覚させるという。

 原理はラジオ局…そう、このデバイスは非常に高度で小さいラジオ局なのだ。

『お、終わりが分からないのが…つらい…!』

 マリーは、午後の授業中に「諦めてもう寝ろよ」と言ってやりたくなる真面目な女子高生のようにビクン!……ビクン!……と断続的に全身の筋肉を痙攣させ続けている。

 今、マリーの脳内の活動はデバイスによって放射され、壁の外にいるだろう研究者のラプトリアンの脳の細胞を励起しているのだ。だが残念ながら、これはではない。

 ラジオ局が各ラジオの状況が分からないように、マリーは受信側の状況、いやそれどころか、そもそも受信しているかどうかも分からないのだ。「脳をハッキング」などと言うと、その人の視界や聴覚、感情が流れ込んでくるイメージがあるが、そんな便利なデバイスはあり得ない。なぜなら脳内の電気信号は微弱すぎて、どうやっても遠隔地からすることはできないからだ。距離にもよるが、コンクリートの壁越しに誰かの脳内の電気信号を受信できるほどの感度アンテナがあったとしたら、それは宇宙背景放射のジャミングで壊れてしまうだろう。

 かくいうわけで、シロイルカのデバイスもしかできなかった。しかも言葉や数式、主張などの複雑な情報の送信するのも無理である。できるのは ――シロイルカの言を借りるならば―― 意志の種を他人に植えることであるらしい。

 口で説明されただけのマリーは疑心暗鬼である。

 そもそもシロイルカも「ラプトリアンに効くかは分からない。同じ哺乳類のホモサピエンスとネアンデルタールには効いたがな」と言っていたほどで、この苦行を断行するモチベーションは揺らぎ始めた。


『もうだめ…だわ…』

 と、マリーが諦めようとしたそのときだった。

 ガチャゴォォーン……!

 隔離室の二重扉が開いたのである。金庫のそれのような重い扉が夜中のピラミッド内に響く。

『!?』

 マリーは唖然とし、デバイスを口から腿の上に落とした。ラプトリアンの女の研究者が姿を現したのである。


――バレた…!?

――計器の異常があったのかしら!?

――それとも…?


 しかし研究者は、そんなマリーの心配をよそに駆け寄ると

『急いで…! 今なら、あの猿人間の守衛は一人よ…!』

 車椅子から彼女を解き放ちながら、小さく潜めた声で囁いた。


 それはスパイ。

 まるで自らの意思で行動している鋭敏な言動であった。

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