第302話 謙譲語を持つ民族の悪癖

「船を覆うスライム……いや‟ムーンマンの緩衝材おきみやげ”が順調に溶けたとしたら外に出てアンテナを直しますよね? そのあとはどうします?」

 円環山脈クレーターの麓に墜落した二番艦デイビッドの中、上下逆さまになった狭い通路を船尾から船首に向けてエンヤコラと這うように進みながら艦長の真之は後ろに続くボーマン司令に訊いた。

「そうだな。一番艦アルテミスと連絡だろう。…いや、もしかするとまだ戦闘が続いているかもしれんな」

 もう臨戦態勢を解除しているボーマンは、とぼけた好々爺のように応える。

 しかし、その話を背中で聞いていた(実際は宇宙服のトランシーバー越しだ)副艦長のアニィは、上官の男二人を蹴とばすかのような語調で指摘した。もっともその棘のある言葉を紡ぐのがインド訛りの甲高い声なので、あまり攻撃的にならない。

「いえ違うわよ!思い出して、ここは山脈の陰なのよ。アンテナはすぐには使えないわ!」

 戦闘中こそその甲高い声はイライラの元だったが、こういう「時間だけはある」という状況ではのように耳に優しい。


「はは、そうか。そうだったな」

 近所のおばさんに怒られているような気分になれたボーマンは思わず笑い、そして続けた。

「ともかくブリッジに行ったら発電機パワーの確認をしてくれ。副長アニィ、ソーラーパネルが使え無いとすると何日持つ?ソーラーパネルも使えんだろ?」

「そうですね」

 副長、と呼ばれてようやくアニィは敬語に戻った。

「充電の分だけなら5日でしょうか。もちろん船内暖房ではなく暖房する形で。酸素もパックを取り替えれば……」

 つまりエヴァンゲリオンのアンビリカルケーブルのような形だ。

 二番艦デイビッドの燃料電池を母体とし、そこから電源ケーブルを各宇宙服に繋いで、服の中だけを暖房する形をとれば極寒となる月の山蔭でも5日は持つという。しかし――


「それは現実的ではない。単純にトイレや食事ができない。やはり294ケルビンでもいいから船内全体を暖めにゃ」

 真之は首を振った。

 294Kとは摂氏1度のことである。飲料水が凍らないギリギリの温度まで船内を暖房し、あとは毛布や何かにくるまって耐えようという事だろう。


「なら、ソーラーパネルを外して山頂まで持って行くしかないわ。ただ船内全体を暖房するなら船の損傷が無く、気密が守られている事も条件だけどね。……あと追加でSALのサポート無しで電源システムの変更もしないと」

「君ならできるだろ?」

 真之は笑いかけた。しかしアニィは少しも笑わず、話を続けた。

「でもソーラーパネルを持って登山するのは誰?」

「艦の事だから艦長の自分がやるさ。危険でもやってやる」

 真之が少しムッとして、強い口調で言い返すのを

「分かった分かった」

 ボーマンが制した。

 それからボーマンは声色を少し変え、8人のクルー全体に向けて言った。

 この物語ではサウロイドの基地が封印している次元跳躍孔ホールのせいで何かと電波通信が使えず困っているワケだが、ここはさすがにサウロイドの基地から遠いため文明の利器(トランシーバー)が使えるのだ。

「みな聞いているな?」

 クルー達は船の各所を点検しつつ、ヘルメット内でボーマンの声に耳を傾ける。

「我々は幸運なことに時間はまだたっぷりある。皆きっと、まだオムツも湿ってない(※)だろう?宇宙服の酸素はゆっくり呼吸すれば4時間もある。知恵を出し合ってゆっくりやろう。絶望してはいかんぞ」

 ※2034年でも宇宙服を着用中の小便はオムツにするしかない。


 そう伝えた後で、ボーマンは思った。

「運よく船に損傷がなく……もしアルテミス級が本領(理論スペック)を発揮できれば、クルー8人なら一ヶ月の滞在も余裕なはずだ。まだ生存の可能性は十分ある。。死ぬわけにはいかない」

「…まったく艦長の真之くん(日本人)も、揚月隊のネッゲルくん(ドイツ人)も民族的なものなのか、死を美化する傾向があっていかんな。自分を下げて相手を上げるは、その勢い余って自分の命を軽んじる傾向があるに違いない」


 アメリカ人のボーマン司令は合理的な判断として、クルーの価値を高く評価し、この月の円環山脈クレーターの陰で無駄死にする事を大きな損害だと正しく認識する事ができていたのである。



――同刻。


 二番艦の座礁地点から南西に100km。

 サウロイドの基地の中でもが生き残るために動いていた。

 サウロイド勢力の若き将、レオである。

 

 彼はいま、A棟の全ての酸素タンクを破壊する「焦土作戦」を完了し、C棟へ撤収する道中であった。

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