第303話 ムーン・ウォーキング・ナイン

 アポロ計画でも目標にされた「静かの海」は実に400kmの半径を誇る、壮麗な円環山脈クレーターだ。

 

 それをいま巨大な時計に見立てたとき、ボーマン司令が座乗する二番艦デイビッドが墜落した地点は、だいたい10時であり、いま戦闘が行われるサウロイドの月面基地は8時の辺りだった。両者の距離は100kmほどであり、‟空気の澄んだ”月なら余裕で見える距離であったがサウロイドの基地は円環山脈クレーターの外側なので両者の間は灰色の山並かべが隔てている。これを言い換えるなら、ということだ。

 だが対照的に――

 サウロイド勢力の司令の方はいま、戦闘の真っただ中にいた。

 両司令が月面と宇宙の間で砲戦を指揮していたのはたった90分前の事であるが、まるで遥か昔のように感じられる……。



……タッ、タッ、タッ!

 もったいない事に、約2000万リットルもの暖かい空気を捨ててしまって、すっかり月面そとと同じ環境になったA棟の廊下を小走りに進む一団がある。

 司令のレオが率いる臨時小隊だ。

『司令、先頭は私が引き受けます…!』

 臨時徴用兵の割に勇気のあるその砲術士官は緊張した声色で、つい集団の先頭を躍り出てしまったレオの肩を叩いた。

『そうですか…』

 レオは一瞬「先頭だから危険という事もないだろう」と思ったが、無駄に断ってその男の篤実さを足蹴にするのもまた無益だと思い直し、素直に好意を受け取ることにした。

『では、先導をお願いします』


 A棟の全ての酸素タンクを破壊するの遂行のため、最後まで司令室に残っていたレオ達は、今ようやく司令室を脱出してC棟へ撤収する道中である。

 メンバーはまず司令のレオ、司軍法官のゾフィ、そして砲術長(代理)のザラ、さらに司令室付きのオペレータ2名、砲術士官のユノ(敵が襲来するときに司令室に居合わせた人物だ)、そして司令室の歩哨の女ラプトリアンに、追加で合流した2名の臨時徴用兵。

 そんな9人の大所帯の彼らが固まってジョギングしているので、まるで「学校の外周を走らされている中学生の集団」のように間抜けに見えるが、もちろん殿しんがり(最後尾の一団)の危険性を認識していて彼らは警戒も怠らない。ときどき振り向いたり、十字路では身を壁に隠して左右をしっかり確認するなどして、敵との遭遇を避けようとしていた。


 敵の動向について、彼らが把握しているのはA棟の北端から4,5名の敵が南下してきているという事だ。最後の目撃情報では月面車整備棟ドックを制圧したその一個小隊はそのままの勢いで猪突猛進で南下を続けており、A-4ブロックまで来ているというではないか。(ノリスが率いる揚月隊の本隊だ。わずか5人になってしまったが勢いは止まらない。……いや、生き残るために基地の制圧を急ぐしかないから必死である)


 もちろんサウロイド達もじんるいの動きを阻むため、A棟のブロックごとに設けられたエアロックを防壁の代わりに閉じているが、棟内のエアロックは事故の際に密閉を確保するための扉であり、敵を閉め出すためのものではないので開けることができてしまった。つまりサウロイド文字の「ロック解除」と「緊急」と「YES」と「強制開放」を敵が学んでしまえば、ワケも無くエアロックは突破されてしまうだろう。


『追いつかれますよ』

 歩哨の女ラプトリアンが、すぐ隣のゾフィに電波通信トランシーバーで言った。この距離であればさすがに次元跳躍孔の電波減衰の効果も薄く、通信が可能だ。

『え?』

 ゾフィは訊き返した。小走りしながらなので、聞き耳を立てないと声が聞こえずらい。

『追いつかれちゃうのでは?』

 女ラプトリアンは声のボリュームを一回り大きくして言い直した。

 戦闘員である彼女の方は割とピシッとした本式の月面服を着ていたが、ゾフィは緊急用の与圧服でダブダブである。また彼女の方は立派な尻尾を持ち、ゾフィの方は尻尾もなければ小さい(ゾフィの体格のせいである)ので、二人が並ぶとまるで別の動物のようだった。

『大丈夫よ。想像もしてみなさい』

 ゾフィはラプトリアンの肩を叩いた。

『彼らはまるで、別の星にいるようなものよ。確かにで、月も地球も彼らの世界の一部だけども、それは物理学者の理屈。現実的にいえば、彼らは見知らぬ知的生物が作った月の建造物の中にいるわけよ?』

『まぁ…』

『右も左も分からないはずよ、彼らは』

『…そうかしら?』

『そうよ!』

 ゾフィは「なんで分からないんだ」と苦笑しつつ、納得していない風の女ラプトリアンのために例を挙げた。

『そうね、「渚ありて…」の‟ビデオ・オペラ”は観たことがある?』

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