第335話 嵐の前の…

 というのは奇妙なものだ。

 いや、正確にはそうではない。

 このブルースという男は自分では格闘家を名乗っているが、いちおう彼を月に送った国連の宇宙軍事務局としては「インストラクター」というつもりだった。だから彼の仕事場は、この真新しいトレーニング用の居住棟ユニットという事になる。第二月面基地に住む40人の科学者の健康を…というか筋肉の衰えを防ぐのが彼の役割だった。


――――


「立派なジムじゃない?」

 第二月面基地の長、管理者にあたるアヌシュカ中佐は、自分も初めて見るタイプ2の居住棟ユニットを珍しそうに見渡しながら言った。このユニットはブルースが来る3日前に第一基地からによって運ばれてきて、中央(ドームの真ん中にある地下洞窟への縦穴)に密集する基幹のユニット群からはずっと離れた空き地にとりあえず設置はしたものの、主がまだ来ていなかったために、見た目の通りまさにトレーラーハウスのごとく放置されていたというわけだ。ちなみに中央付近の基幹のユニット群とは、医務室や機関室や研究室、あるいは縦穴を降りるリフトの制御室などである。


「ダメだ。レスリングも柔道できない。マシントレーニングを俺は信じない」

 立派なジムだ、というアニィ(アヌシュカの愛称)問いにブルースはぶっきらぼうに首を振った。

「そうなの?」

 アニィの代わりに筆者が調べたところ、レスリングも柔道も余白を無視すればだいたい同じで、縦横9mの空間があれば可能(レスリングは直径9mの円なので面積としては柔道より小さい)であり、このトレーニングルームも10m四方のサイズを持っていたが……いままさにブルースが開封しているベンチプレスやバイクなどの他の器具を置いてしまえば、余裕をもって組み手をするスペースは残らないだろう。


「こんなモノ置かせるなんて。UNSF(国連宇宙軍)は分かってない…」

「でも柔道なんて意味があるのかしら?」

 アニィは部屋の中心に進み、まだ開封されていないルームランナーを撫でながら言った。下向きに引っ張るベルトがついたハーネスを着て、足腰に1G相当の負荷をかけつつ走る事のできるルームランナーだが…

「そんなオモチャよりは、たぶんな」

 ブルースはそれを否定して柔道の方が意味があると言った。


「そう。まぁ研究は進めてちょうだい」

 アニィは半裸のブルースの、鍛え抜かれた背中を叩いた。167cmしかない小柄なアジア人だが背中は驚くほど力強かった。

「アナタだって月面の重力は初めてでしょう? もしアナタが編み出した‟健康法”が優れていれば、。なぜって、このまま低重力での衰弱が進めば私はあと二週間で地球に戻らなければいけない事になっているからよ。あと16日でネッゲル少佐(あの戦いを経て二階級特進している)の持つ月面生活の世界最長記録……たしか235日を超えるというのに」

「アナタを鍛えて、少しでも長く月で健康に過ごせるよう…努力しましょう」

 ブルースは態度こそぶっきらぼうだが、文字にするとなかなか丁寧な男である。アニィは知らないところだが、たぶん儒教か何かの教えが素養としてあるのだろう。

「お願いね。一人当たりの月滞在可能時間が数日延びるだけで数百億の節約になる。地球と月を往来させるコストがね」

「はい」


 宇宙ステーションより月の滞在が難しいのは、宇宙ステーションは遠心力を使った疑似重力の部屋を用意できるが月ではそうはいかない、という事だ。

 月でそういう擬似的に1Gの負荷を与えられる部屋を作るなら、遊園地のアトラクションのような人が乗るカプセルを先端につけてぶん回す大規模施設になるだろう。もちろんそんなものの建設は無理なので(作ったところで何人が乗れるのだ?そこで寝るにはどれだけの電力が必要なのだ?)基本的に月に滞在する者は四六時中、1/6事になり、一週間で体調に違和感が出て、四ヶ月でドクターストップとなって地球に帰されるのが普通だった。

 だから少しでも滞在期間を伸ばすには日々のトレーニングが肝心であり、そして――

「そのために私が来ました」

 ブルースがいるのである。


 と、そのときだった。

 ファーオン、ファーオン!!


 けたたましく警報が鳴った。だが、この音は火災ではない!

「敵襲!?」

 アニィはすぐに音を聞き分けて、そして戦慄した。

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