第336話 ブラックパンサー風の月面服
と、そのときだった。
ファーオン、ファーオン!!
けたたましく警報が鳴った。
月面基地で最も可能性のある事故は火災であり、次に空気の異常(漏れや成分の異常だ)、あるいはこの基地なら調査中の地下洞窟の落盤…などが考えられるが、その警報はなんと――
「敵襲!?」
――敵襲だったのだ。
アニィはすぐに警報音を聞き分けて、そして戦慄した。
第一基地なら分かるが、こんな僻地に敵襲などあるはずがないのに!
「敵襲だと…?」
ブルースが静かに強く言った。
「その音よ!ミスだといいけど! 私はコントロールルームに戻るわ」
ブルースは格闘家(実際は
彼女はブルースの返答もまたずに踵を返し、息を吸い込んで止めるとそのまま二重扉をバンバンと蹴破るような勢いで外(ドームの中)へ飛び出していった。こういうときにこそ、窒素ばかりとはいえドーム内が加圧されている事は、いちいち月面服に着替えなくて良いという点で圧倒的な利便性がある。
「……」
ブルースは アニィが放り投げていった真新しいルームランナーの伸縮ベルトの留め具を目で追っていた。彼女が興味深げにいじっていた「下方向への負荷をかけるためのその伸縮ベルト」はいま、月の重力のせいでえらくゆっくり仰々しく、まるで大蛇ヨルムンガンドが崩れ落ちるように倒れ込んでいった。
もちろんヨルムンガンドの崩御が暗示するのはそう、今までの世界の終わり「ラグナロク」である。
ブワッ…カサカサ……
南国の小鳥のような声のアニィが去ってしまうと、このトレーニング室はまた色を失って、ただ梱包材のビニールが冷たい風に揺すられてすり合う音だけが鳴っている。残されたブルースは「敵襲」という言葉に何を思うのか、物言わずただ遠くを見るような目で佇んでいた。
――――――
一方、別の格闘家も月に到着していた。
「ドームの話は聞いていないが…」
例の謎の離着陸艇から灰色の大地に降り立ったナオミは、300m遠方に見える太ったクラゲのような人類の月面基地を見やりつつ一言、そう呟いた。ただし、文字面だけなら弱気にも捉えられるその呟きだが感情としては一切の不平不満は含まれていない。腹を決めている彼女は、ただ事実を言ったまで、といった雰囲気だった。
ナオミはウェットスーツのような薄いアンダーウェアをベースに、籠手や胸当て、ニーパッドを纏い、そして顔には鈍い銀色のマスク…いやヘルメットを着けている。
彼女はいまのところ謎の存在で、もしかすると改造人間かもしれないが、少なくとも地球外の星で呼吸ができるというわけではないようだ。(よくよく考えれば、アベンジャーズやスターウォーズでは別の惑星でヘッチャラで呼吸しているが変な話である)
そうした空気や気圧という観点で‟ツッコミ”を入れるなら、彼女のブラックパンサースーツ、いや仮面ライダースーツは許せるとして、離着陸艇の方はおかしな見た目になっていた。
というのも驚くべきことに離着陸艇のドアは一枚の
まるで月というキャンプ場に到着して車のドアを開け放ち、車外に出て伸びをする……そんな光景をナオミと離着陸艇は作り上げていたのだった。
と、そのときだった。
動物好きには耐えられない事が起きた。
車…ではなく船内に残されたヒョルデがバッと立ち上がり、そのまま外に飛び出て来てしまったのである。もちろん何も着ていない。動物として生まれたままの姿で、月面に躍り出てしまったのだ。まるで高速道路を走行中に、何を思ったのか子犬が車の窓の細い隙間から外にジャンプしてしまったようにだ。
もし空気で肺が満たされていれば気圧の差で破裂するだろうし、眼球の毛細血管は避けてしまうだろう……が!
「戻れ」
ナオミは溜息まじりに言うだけだった。
どちらかというと彼女に驚きに近しい負の感情があるとすればそれは「しつけが足りないな」という落胆だけであったのだ。というのもそう、なんということかこの犬に似た生物であるヒョルデは、月面に飛び降りてもブルブルと体を揺すったり、前足を伸ばしてギュゥーとストレッチするだけで至極ヘッチャラな様子だったのである。
海に潜ったときのアシカのように鼻の穴はしっかりと閉じられ、眼球の表面にはサメのような半透明の防御板が降りていた。おそらくあの肌触りが良すぎる圧倒的な毛量の体毛は放射線を跳ね返す事もできるのだろう。
つまり早い話が、このヒョルデという犬に似た生物は宇宙への適応力を持っていたのである。おそらく長時間は難しいだろうが、少なくとも十数分なら大気を持たないか、あるいは有毒な大気を持つ星での活動が可能なようだ。
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