第337話 犬に似た何か
ブラックパンサーか仮面ライダーのような軽妙な
開け放たままだった離着陸艇のハッチから出て来てしまったのだ。
ヒョルデが ――改造生物なのかどうかは分からないがともかく―― 短時間なら宇宙空間でも平気だというのは前章の通りで、ナオミは全く驚かずにただ「やれやれ」と首を振った。
ヒョルデは彼女の左の脇腹辺りに自分の頭の右側頭部を押し付けて甘え、彼女はその巨大な頭を
「…戻れ」
力いっぱいに押し退けた。
水族館で、酸素ボンベを背負って水槽の掃除をするダイバーに対しジュゴンが絡んでくるという微笑ましい映像を見た事があるが、それとまったく同じ構図だ。宇宙服に身を包んだ彼女に対し、数分か十数分か宇宙に潜れるヒョルデが遊ぼうと誘っているのだ。
――ああ、今日が試練の日でないなら、この未知なる星の重力で遊ぶのも良かっただろう。
彼女はそう思った
――しかし今日は試練の日なのだ。
――そしてマスターの言うように、十中八九、私は試練に敗れるだろう。
「もう一度、いう。ヒョルデ…」
犬を躾けたいなら本来なら冷徹に目を合わせず怖い声で諭したいところだが、ここは真空なので仕方がない……というのは言い訳で、彼女は今生の別れを告げるために足元のヒョルデに視線を向けて、アイコンタクトとジェスチャーで彼に離着陸艇の中に戻るように指示をした。
「戻れ」
――‟ジータ”が次の主になってくれるさ。お前を欲しがっていたからな
――迎えに来てくれるまで、船の中で待っているんだぞ
ヒョウにも勝る体躯を誇るヒョルデは十分な戦力になっただろうが、この通過儀礼は、この試練は一人で成し遂げなければならない掟だったのだ。
ヒョルデは、宇宙を泳ぐときの膜で覆われたコバルトブルーの瞳で、しばらく彼女を見つめていたが、さすがに諦めて離着陸艇にピョンと戻っていった。そしてヒョルデが離着陸艇の中で横になったのを確認した彼女は、左腕の籠手に隠されたコンソールをピピッと操作し離着陸艇のハッチを閉じて相棒を閉じ込めると、一言
「さらば、友よ…」
と呟き、あとはもう迷いなく体を反転させて歩み出した。
ザッ…ザッ…ザッ…
彼女は単身で試練の場、言い換えると「巨大なクラゲのように見える人類の第二月面基地」を目指す。
空を見れば今日も(というか毎日だ)太陽と地球がサンサンと輝いており、ティファニー山の陰から出た瞬間に、白飛びするように目映い灰色の覇道を用意してくれた。そのサクサクという月の砂の大地の踏み心地は、本来なら積もってから2日目の朝の少し氷でコーティングされた新雪の上を歩くように小気味よいはずだが、今の彼女には焼きが甘かった遺灰の上を歩いている気分にさせていた。
まだカルシウムの粉にならず、ギリギリ形を留めている死者の頭骨や仙骨を踏みながら進んでいる気分になる。
ザッ…ザッ…ザッ…
「……」
そう、今宵の月の大地はまさに
――――――
「落盤事故の可能性は無いのね!?」
その
そのユニットは地下洞窟へ降りるリフトの制御室で、リフト以外にも様々な観測機器が所狭しと並んでおり、サイズ感も含めて室内は‟放送車”のような雰囲気がある。
ブルースのトレーニング室はエアロックなどを排して広くなったタイプ2型だと説明したが、このタイプ1型の居住ユニットでも床面積は39平方メートル(3m×13m。電車約3両分)で十分な広さを持つ。しかし玄関(フロント)にはエアロックとなる厳重な小部屋があったり、発電機や二酸化炭素除去装置、水の浄水器などのインフラ設備があったり、さらにこのユニットには機関室のごとくリフトの巻き上げ機(巨大モーター)が鎮座していて、人間のためのスペースは猫の額ほどしかないのだ。
なお、ここはリフトの制御室なので巻き上げ機は仕方が無いとして、インフラ機器に関しては別のユニットで中央制御すれば良いと思うが、しかし「個々が独立している」という所こそがユニット式月面コロニーの本懐であるので、仕方が無いのである。1つのユニットをドンッと置けば、それとソーラーパネルだけで長期滞在ができるというシンプルさがポイントなのだ。
閑話休題。
アニィはちょっと背伸びをして、窓の外を見やりながら叫んだ。
「まだリフトを引き上げてないの!?」
真空にも耐える分厚いガラス窓の向こうには巨大な縦穴、地下洞窟へと続く地獄の口が見えるのである。
「地下に言った連中からの指示を待っているんですよ!」
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