第6話 ネッゲル青年の朝
その報道は8月に入ってから行われた。
ネッゲル青年は多数のボストンバッグを車に運び入れるため玄関と自分の部屋を結ぶ階段を往来している所だった。空軍の士官学校の寄宿舎に引っ越すため、18年過ごした我が家に別れを告げる、まさにその日だったのだ。
「ねぇ、ちょっときて!」
居間から母親の余裕が無い声が響いた。
「ママ、食べるって!大丈夫。まだ時間は十分にある」
青年は母のその声色から、息子に最期の手料理を何としても食べさせたいのだ、と察した。時刻は朝の7時。8月のアトランタの太陽は既に燦然と輝き、1秒1秒を刻むのを体感できるかのように気温を押し上げていく。青年の空色のパリッとしたシャツの背中には汗のシミが出来ていた。
「アーニー!違うのよ!ちょっと」
「ママ!」
どこかで大型犬の吠える声が聞こえる。散歩でもせがんでいるのか嬉しそうな声だ。青年は車のトランクを締めると仕方なく居間に向かった。
孫のように歳の離れた一人息子を子供扱いするのは分かる。年老いた母親が衣食住の事ばかり気にするのは全ての文化圏で共通の本能的なものなのかもしれない。さっさと食べてしまって、美味しかったと言ってやらねば収まらないだろう。
「待たせたね!」
青年は居間のドアをくぐった。
食卓には見事な朝食がそろっていた。が、そうではなかった。
母親はテレビを食い入るように見つめていた。母親世代だけではない、選り好みをしにくいという公共性(その表現が適切かは分からないが)の高さからテレビはまだまだ廃れていない。好きなモノだけを食べれるファストフードがAIによる趣味嗜好の選別を許したアナタのネット情報だとするなら、テレビはフランスや日本などで行われている学校給食のようなものだ。大いなる力でコントロールはされてはいよう、だが栄養バランスは悪くはない。
「変なニュースがやっているよ」
「変なニュース?」表現が稚拙で、青年はちょっと笑ってしまった。「まったく、暑くないのかい?」
部屋の窓は締め切られていた。6フィートを裕に超える筋骨隆々の青年と老婆と呼んでもさしつかえない年老いた母親では代謝が違いすぎるのだ。青年は一目散に窓に向かい、背中でニュースを聞いた。
『…という事ですね。いったんここで人類の歴史を…今まで考えられていたものですが、それを確認してみましょう。まず皆さん誰もが知っているところから…キリストが産まれたのが、えー。はい、ココですね。2029年前になります』
「こんな時間に教養番組かい?」朝の7時である。
青年は呆れた笑いを浮かべたまま、少しの好奇心でテレビに向き直った。教養系のドキュメンタリーにしては妙に不慣れで、おそらくパネルか何かを使って図解しているのだろうが、なぜそんなに慌ただしいのか不思議に思ったからだ。
その疑問は次の瞬間、混乱に変わる事になった。
『諸説ありますが、鉄を使うようになった、製鉄技術ですね、製鉄技術がココ…約3500年前。えー、ヒッタイトと言われる、えー現在のトルコにいた民族がはじめた…という形で』
『そうですね。繰り返しになりますが、ヒッタイトの鉄の利用は諸説ある中の一つです。現在では否定的な見解を示す専門家も多いですが…』
リハーサルをできていないのだろう。相変わらず、聞きづらい報道が続いた。
その報道はあまりにも初歩的で、その意味でも青年にとって聞く価値のあるものではなかったが彼を震撼させたのは画面下部に表示され続けている見出しのテロップだった。
「ありえない…!」
見出しにはこうあった。
『月面で白骨化した死体。7万年前のものと鑑定』
『このあと、NASAと国防総省の共同会見』
「そうだよね?…父さんは知っていたのだろうか?」
「たぶん」
「忙しそうだったものね?」
「ああ。でも言わないだろう」彼は咄嗟に尻のポケットのスマートフォンに手を伸ばしたが、一瞬考えて辞めた。まだ民間人の自分がインターネットで調べて何が分かるというのだろう。グーグルは何も答えくれまい。確かに情報は早い。この『7万年前がどのぐらい昔か』を説明するテレビの尺稼ぎの茶番よりは、クリティカルな情報を獲得できるだろう。だが、それだけじゃないか。
「母さん、今は…」――母さん。僕はこういう時に指を咥えて待つしかないのは嫌なんだ。だけど今の僕は何もできる事はない。だから今は――「食事にしよう」
彼女は一瞬何かを言いたげだったが、それを呑み込み「…そうだね」とだけ言った。
目の前の息子から触れがたい静かな決意を感じとったからだ。胎児は自ら母体に指示を送ってお産を促すそうだが、まさにそれがもう一度起きた。子離れのサインが子供から送られたのだ。
「さぁ、たっぷりお食べ」
「ありがとう」
腕まくりをしたブルーのシャツ。襟は彼の決意を示すようにパキッと立っている。巨体のせいで椅子から足が余って、下半身をMの字のように座りつつもしかし背筋を伸ばして行儀よく食事をしているその背中は、まさに臥薪嘗胆というのにふさわしい。
アーノルド・ネッゲル。2011年生まれ。18歳。
アーノルドはゲルマン語の「鷲」と「力」を組み合わせた名前だという。
自らを無力を知っているという何より優れた翼を持った若鷲が、2029年の夏、巣立ちを迎えた。この後、彼はPHIDIASという運命の虜囚となり戦い続ける事になる。ついには生涯もう二度とこのアトランタの生家に戻る事はないのだが、もちろんそれはこの若鷲が知る由もない事だった。
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