第5話 アトランタ、夕暮れ
2029年6月、月にはアメリカ国旗といくつかの太陽神の残骸のみがあった。
あったはずだった…。
「ふぅん…。さ、プロムに遅れてしまうわ」少女はひとしきり考えた後、スマートフォンをドレスのポケットにしまって車を出すように言った。少女にとっては中国の月面着陸より、あるいはそれを尊大に『60年ぶりに人類が月面に立つ』と言い換えようとも、これから始まるプロムの方が大事に思えてならなかった。少女にとっては高校生最後のこのパーティ以上に人生で大事な事など無いように思えていた。無理もない。むしろ一瞬だけでも、これから始まる人生の大舞台たる華やかなプロムを忘れ、虚空の月面をフワフワと歩く中国人に想いを馳せたというだけで、なかなか素敵な人間だと思う。
「ガスが少なかったのは分かっていたんだ。だが…」
「1ガロンで20キロも走れないなんて。変な車を借りるからよ」
「ビュイック・リビエラだぜ?」
「イカすけどさ。…古いじゃない」少女は作り笑いを浮かべた。ニキビ肌を下手な化粧で隠した様がなんとも瑞々しい。
「ラジオはつくのかな?」ネッゲル青年は旧車を扱うのが楽しいようだ。
「それより早く出して」しかし少女は現実に生きている。
「ああ、わかったよ」
若い男女を乗せた車が薄暮の地平に消えていく。大地と宇宙の漆黒をオレンジに染まった大気が細く、しかし力強く分断している。地球の輪郭…無と有の境界線は、生物の他者と自分を分かつ細胞膜のように凜然と輝いていた。
ネッゲル青年は、そのマチズモの典型のような容姿に似合わずロマンチストであった。
彼は、この車が60年前にも月面着陸についてのラジオを聞いていたかもしれないと思い至り、何か心に迫るものを感じていた。
この見事な夕焼けと、慣れないマニュアル車の運転、アトランタの初夏の風と淡い性欲、そして時代を超えた2つの月面着陸…彼はこの日を忘れる事はないだろう。
一方で彼女にとっては、高校のアメフト部のキャプテンという事以外はイケていない不器用な男に、単に乗り心地の悪い車でプロムに送迎された日である。きっと大学に行って身体能力が男の魅力の全てだという盲信から解放されたなら、色取り取りの思い出達に埋没して忘れ去られる高校のある一日に過ぎない。
このようにして、2回目(アポロの各号を個別に数えると7回目)の月面着陸が行われた。
世界中の人々が固唾を呑んで…などというドラマチックなものではない。しかし、確かに注目度こそ下がったものの、やはりネッゲル青年のように多くの人々の関心や感慨を集めた大事件である事は間違いない。
世界中のカップルが彼らのような会話をしたのだろう。
「月に何があるの?」
「月にはアメリカ国旗があるんだよ」
…が、そうではなかった。
人類にとっての本当の大事件は月に着く事ではなく、月に着いた後に起きた。
多くの人々は2か月後、8月に入ってからその報道を聞いた。
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