第575話 月の女神は弓の名手(前編)

 地面の激しい温度変化を避けるため、月面に設置されるソーラーパネルは高さ80cmほど足を持っている。それはちょうど人類の机やテーブルと同じぐらいの高さであり、またもちろんパネルを敷き詰められているのであるから、その下に潜る身を隠すというのは、永遠と地平線まで続くに潜り込むような気分である。

 その闇は深い。


『すでに囲まれているぞ!』

 聴覚が役に立たない月面において、その闇は最大の難敵であった。三人はすぐ傍に迫るまで蟻兵に気付くことができなかったのだ。

『!』

 エラキの警告でマリーとリピアもヘッドライトを全開にしたが(電力をケチっていた…がよく考えれば靴に穴が開き酸素が漏れているのでこの節電は無意味であった)それで飛び込んできたのは絶望の光景であった。それは夜の海に弱い懐中電灯を向けたときのような、黒い巨大な集合体が遠方でワサワサと動く様である。この波のようにゆらぐ影が蟻兵の集合体だとするならば――

『無理です!』

 リピアがそう叫ぶように対処のしようが無い。

 関節の構造が違うのだろう、後ろ足を匍匐前進と呼ぶには奇妙すぎるフォームで迫ってくる蟻兵は、ソーラーパネルが作る闇の底という背景も相まって邪術的な妖しさを帯びていた。彼らにとっての「四つん這い」がその形いうだけであって、サウロイドわれわれの価値観で断定するのは忍びないが明らかに悪霊か亡者じゃないか――とリピアは戦慄した。

 せめてもの救いは、忍者が屋根裏を這うように「刀を背中に背負っている」という所作である。その普通っぽい仕草が蟻人間をギリギリの中に収めてくれている印象があった。と、次の瞬間だ。

『ガオォォ!!』

 エラキが吠えた。

 いやというに近い。機知に富むタイプではないが、冷静さと経験がもたらす的確な判断を貫いてきた彼が、こうして無駄に吠えるのは異常な事である。吠えずにはいられなかったのだ。


――絶望などするか!

――こんな薄汚い生物に竜人われらが恐怖など抱いてなるものか!

――許さん!

――ゴミどもめ! 思い知らせてやる!!


『来い!!!』

 エラキは「もう屈んで隠れるのはしまいだ!」とばかりにソーラーパネルを後頭部で跳ね上げて立ち上がった。ソーラーパネルは途中で折れて千切れ、一畳ほどの破片が秋の宇宙そらに舞う。

『―っ!?』

 それを見たマリーは咄嗟に地面の月面塵レゴリスを両手いっぱい掴むと(パネルの下に身を隠すため屈んでいたのが良かった)同じようにソーラーパメルを頭で突き破り立ち上がってワァッと中空に撒いた。それも一回では足りないと思ったのか、スクワットでもするようにすぐ屈み込み、もう一度撒いた。もちろんそれは、どこかから狙っている六弦弓兵スナイパーのための目隠しだ!

『曹長!何か――』

!中尉!』

 思いもしなかった行動に六弦弓兵も反応が遅れたのだろう周囲を砂塵が満たすまであの極太の矢が飛んでくることはなかった。こうなってしまえば弓兵に怯える必要はない。ないが

『策などあろうはずがない!!!』

 策は無いという。

 エラキは叫びつつ次々にして、さらに周囲のソーラーパネルを破壊し、半径5mほどの地面が露出しているフィールドを作った。

 そう。これは土俵、 いや闘技場コロシアムである!

『できることはただ一つ!』

 エラキは、現れた一匹目の蟻兵を一蹴しつつ叫んだ。

 靴を破った甲斐はあり(本当は走るためにそうしたのだが)露出した爪は、ラプトリアンの回し蹴りの本領を誇示するがごとく、蹴りを防ごうと構えた4本の腕ごと蟻兵の体を粉砕してしまった。

『脆い!!』

 この窮状、この死地も相まって、それは防御の上から叩き切る強力無比な一撃をモットーとする薩摩の示現流を思わせる。


――――――


 リピアとマリーは砂塵で目隠しされている事を利用し、ソーラーパネルの上を移動しエラキが作った闘技場に合流して戦った。ゴールみらいの無いただただ続く肉弾戦である。マリーは武人的(オス的というべきか)の高揚エクスタシーは感じておらず、相手が相手なら降伏してしまいたかったがそういうワケにもいかない。

『はぁ…はぁ…! じ、自殺用に残しておきます!?』

『撃て!! ガオォォ!!!』

 月面ライフルを預かるマリーは残弾を気にしたが、エラキは許してくれなかった。スイッチの入った彼は人間われわれでいうとハルクか狼男のようで、時折ムダに吠えては、あばら骨が折れている事も忘れて一騎当千を演じる。

『…もう!』

 闘技場をグルリと囲むパネルの下から断続的にワッと躍り出て来る蟻兵は、場にそぐわぬ表現で言えば「ワニワニパニック」のようであった。マリーを中心にしてエラキとリピアが外周を回り、蟻兵が立ち上がり構えを作る前を狙って刈り取っていく。それでも対処しきれない場合にはマリーがライフルで始末する形だ。

『いいですよ!!』

 リピアは、これで12匹目という蟻兵を蹴り殺したとき、少し希望を含んだ声で言った。

 これは予期していない幸運だったが、どうやら蟻兵はようだ。つまりパネルを破壊したくない彼らは、パネルの下を四つん這いで侵攻してくるほかなく、前の者が這い出ないと次の者が出れない。しかも味方の死体も邪魔である。

 戦力を小出しにするしかなく、一気にすり潰す事ができないのだ。しかし――

『良くないわ! ジリ貧よ』

 マリーは怒鳴り返した。

 極小タイマンの勝利を重ねても戦力の趨勢は変わらない。戦いを長引かせても、どっちみち酸素が切れるからだ。

『誇りを示すまでのこと!』

 エラキはそう勇猛無比に叫ぶが、正直マリーは辟易している。これは無駄死にだ…!


――なにか…

――可能性がゼロでなければ何かの賭けでもいい。なにか…


『パネルの上を行きましょう!』

られるだけだ!』

 パネルの上を走ってA棟を目指そうというマリーに対し、この砂塵の外に出たら狙撃されるだけだ、とエラキは拒絶する。

『無駄死にだ!』

『……』

 このときマリーは、ライフルを使い切ったら(それはすわなちを果たしたら)自分だけはパネルの上を走って逃げようと決心した。


――何かの理由で弓兵がいないかもしれないではないじゃない!

――無駄死になのは、ここで誇りなるものを示すために戦うことだわ!


 実際、彼女は逃げていただろう。

 エラキとリピアは死に、マリーはI-SIPに捕まって生き延びるという世界線ストーリーもあり得たかもしれない。

 しかしここで思わぬことが起きた!


 100mほど彼方に見えるから、謎の光の筋が地平線の宇宙そらに向かって立ち上ったのだ。

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